池坊短期大学紀要 (31号)2001年03月
論文:「太閤園淀川邸(旧藤田徳次郎邸)茶室棟に関する調査報告」
(池坊短期大学助教授) 岩崎 正弥

はじめに

 平成11年夏、池坊文化学院中村昌生学院長のご紹介により、大阪府教育委員会「大阪府の近代和風建築」調査の一環として大阪芸術大学の山形政昭先生が担当される太閤園淀川邸(旧藤田徳次郎邸)の実測調査に参加させていただいた。大変大規模な木造の邸宅を、関西大学の橋寺知子講師と両大学の大学院生とともに分担して隅々まで寸法実測し、私はそれらをまとめてCADで描画することを私が担当した。この調査結果は同名の「大阪府の近代和風建築」調査報告書に4ページにわたって掲載され、平成12年3月31日付けで上梓された。

 今回私は、この邸宅建築のうち、「茶室棟」に関して一層の記録と解説をいたし、当時の大阪茶の湯界の趨勢と、藤田男爵家がこの茶室棟に込めた思い、茶室棟の特徴と果たした役割について考察を付加することとしたい。


図1 太閤園淀川邸(旧藤田徳次郎邸)配置図
1.太閤園淀川邸の概要

 大閤園淀川邸の概要については、上記の報告に山形先生が執筆された文章に的確に述べられているので、先生の御許しをいただいて、ここに引用転載いたすこととする。

「都島区網島町に藤田美術館と道を挟んで藤田観光が営む太閤園がある。道路に面してRC造の新棟が建つが、その北に木造四注門形式の表門が構えられ、園内の書院造り邸宅建築の存在を窺わせている。約7000坪を有する園内のほぼ中央に御殿風和風建築の淀川邸がある。この一角が藤田伝次郎によって明治43年より大正3年にかけて次男徳次郎の居宅として建てられた遺邸である。
 明治初期より大阪で軍需品で業を起こし、やがて鉱山の開発など種々の近代産業を手掛け、一代にして藤田財閥を築いて男爵に列せられた藤田伝三郎が、大阪城の北、大川に面する広大な網島の地を入手したのは明治20年頃といわれている。明治29年頃には住宅(旧本邸)を建てていたといわれ、さらに明治43年より敷地のほぼ中央に新本邸、その左右に次男徳次郎のための東邸と西の別邸の3つの壮大な邸宅がここに建築された。その規模は、ほぼ同時期に天王寺茶臼山で建築されていた住友本邸にならんで当時でも屈指の規模を誇る和風邸宅であったと思われる。
 この一群の邸宅に関する一部の図面資料が近年発見され、日大理工学部の大川研究室に蔵され、その概要を紹介する研究がなされている。藤田邸建設の中心となった棟梁今井平七については明治34年に記された履歴書があり、主に京都で仕事をした大工棟梁であったこと、そして明治20年前後には皇居明治宮殿の造営に関わり、また明治20年大倉組と藤田組の建築部が合同して設立された日本土木会社に技師として属していたことなど経歴の半ばが知られている。
 ところで網島藤田邸一帯は昭和20年の戦火により本邸のRC造蔵(現藤田美術館)と東邸を残して焼失している。つまり戦災から免れた東邸は、徳次郎邸の遺邸であるに留まらず、一群の藤田邸の建築を類推させるものでもある。
 戦後、昭和33年に太閤園が開かれている。その前後に遺邸の南側にあった居住部は撤去改築されているが、中庭を囲んで主に4棟の書院式和風建築と茶室棟が残され、現在淀川邸と称される一角をなしている。以下にその主要部の概要を記す。
写真1 車  寄写真2 紹鴎の間テラスより
写真3 瓢箪(左)と東棟を望む写真4 東棟(右寄り)松の間・桐の間
 西の玄関棟は、瓦葺入母屋屋根で中央に唐破風を配した玄関を設ける。洋室の鶴の間と中庭の離れのような洋室藤の間(旧撞球室)がある。北側には洋室広間の紹鴎の間と格調高い床棚飾りを備えた書院造大広間の羽衣が並ぶ。紹鴎の間には石敷き縁が付き、鉄柱で支持された深い軒が掛けられている。羽衣は二重入母屋屋根を掛け、その高い棟は東に続いて2階建の主屋と並び、淀川邸の偉観をなしている。2階建主屋は階下に主室の松の間、桐の間、竹の間、桜の間、そして改装されている瓢箪が並ぶ。中庭に面して回廊状に巡る廊下の一端が北西に伸びたところに3つの茶室が連なっている。南より萱葺き屋根の小間の茶室萩の間、残月の間、大炉の間と、水屋の一角を配している。
 これら茶室の普請には、香雪と号し数寄者として知られた伝三郎の好み、あるいは当時30才にさしかかっていた耕雪こと徳次郎の好みが映じているものと思われるが、棟梁今井との関係は明らかでない。
 本邸の建築について昭和33年に記された「淀川邸記」がある。それによると棟梁として今井の他、佐藤欽三郎、高木平次郎の名が記されており、この茶室普請に関わった大工が含まれているかもしれない。「淀川邸記」の過半は庭内に配された石造古美術の来歴に当てられているもので、建築の竣工後大正5年に整えられたという池と流れを配した苑地も本邸の史的価値を担うものである。(山形)」

図2 太閤園淀川邸(旧藤田徳次郎邸)平面詳細図

1.茶室棟部分の配置計画について
 この茶室棟について、まずその配置計画の特長について指摘したい。
 第一に、茶室棟は邸宅全体の配置計画及び、動線計画の上で大変優れた位置に置かれている。邸宅の全体構成は、中庭を中心に回廊がめぐらされ、その4方に4つの棟が取りついている。その内の玄関棟と紹鴎羽衣棟の間の角に茶室棟への回廊が接続している。これは、既にこの頃大寄せの茶事に相当する大規模な茶会が頻繁に行われ、そのための利便から玄関に近いとことに置かれたものと推察される。露地に案内するにも車寄せから程なく歩いてゆける。また水屋方も車寄せに近いので、準備など諸事に便利であったろう。

写真5 紹鴎の間写真6 羽衣の間
写真7 藤の間(旧撞球室)写真8 松の間
 また車寄せから入った客を、庭を大きく迂回して池の橋や飛び石を歩かせて茶室へ誘導することもできたであろう。
 次に、その渡り廊下の取りつき方が、実に巧妙である。中庭を囲む御殿風の回廊を歩いているだけでは、茶室棟の存在にまったく気付かない。その隅の杉戸のひとつを引き開けると、はじめて茶室棟への丸太造りの侘びた渡り廊下が現れる、という仕掛けである。真と草を建具一枚で区切っているわけである。
 また、庭園の側から眺めたとき、この茶室棟が庭の中で極めて効果的な景色を作っていることがわかる。庭園の池は茶室棟を中心に大きく孤を描いていて、対岸を歩く人の目には、茶室は自ずと常にビューストップとして意識される。しかしその池の中ほどに松の茂る中島が置かれているので、その姿は池の木の間ごしに時々垣間見えるのみである。島へ渡るには石橋と飛び石の2箇所のみであり、対岸からはその2箇所の石橋越し、あるいは飛び石越しにのみ、茶室の姿を見ることができる。こうした幽玄の彼方に茶室棟を隠しつつ、かつ見せているのである。その姿は水際に近く張り出した「大炉」の間、それよりは小高く船付の石組の上に立つ「残月」の間の、2つの屋根が、高さと大きさを変えてリズミカルに響きあって、対岸からの良き景色となるように巧まれている。
 一方では、玄関の車寄や大書院の「羽衣の間」、洋食広間の「紹鴎の間」およびそのテラスからは、茶室棟の姿がはっきりとは見えないよう、木立等で厳重に隠されている。
写真9 庭園より石橋越しに茶室棟を見る    図3 庭園からの視線



2.茶室棟諸室の特長について
 茶室棟は主に3つの茶室(「残月」の間「大炉」の間「萩」の間)と水屋によって構成されている。

図4 茶室棟平面詳細図
(1)「残月」
 まず「残月」の間は、茶室棟の主室ともいうべき席で、表千家宗家不審庵の書院「残月」の写しである。といっても本歌が十畳であるのに対してこちらは八畳と、長手に半間短くなっており、また次の間も略されているため、北面と東面に外部から出入りできる四枚障子を持つ、開放的で明るい茶亭となっている。またその2方向に深く張りだされている土間庇の、桁の交わる位置には庇を支えるべき柱が無い。これは屋根の重さをテコに使って野垂木を跳ね上げて庇を支える工夫で、当時の数寄屋普請で棟梁たちが腕を競った技巧である。
 床まわりでは、奥の壁にあるべき明かり障子が無いこと、床柱の角柱には花釘がなく、代わりにその奥の杉天然絞の柱に打たれていること、床框にえくぼの多い杉丸太が使われているなど、概して小間に近い野趣に富む扱いがなされている。しかしながら、屋久杉の大板ニ枚を天井に張られた残月床は、名物道具の飾りつけに耐えられる風格をしっかりと保っている。おそらくこの床を囲んで客はL字型に座り、亭主と語らいながら道具を語り合ったものであろう。
写真10 残月の間写真11 残月の間 床

(2)「大炉」
 さて「残月」からさらに廊下を西奥に進むと、両側の窓越しに外の景色が見渡せる丸太つくりの渡り廊下が、斜めの角度で取りついている。滑り易い杉丸太敷きの数段の踏み段を注意深く踏んで下りると、柱を池に張り出されて立つ六畳敷きの逆勝手「大炉」の間がある。ご存知のように大炉構えは裏千家にちなむものであり、本歌もまた逆勝手である。
 まず、襖を開けて直ぐの踏込板と蹴込床の床板が兼ねられた大きな松の一枚板が立派である。これを回廊の壁から延長された小壁で、踏込みと床とに区分けしている。実際の小壁は、それより穏やかな角度になっている。
 この部分の天井は網代天井、その奥の主な部分は竹の垂木による化粧舟天井である。池に面する側の四枚障子を上下に分け、手すりに程よい低め高さで無目を渡していることと併せて、さながら船屋形の風情である。
 床柱には節の多い丸太、四周の造作にも曲がりの多い面皮柱が用いられて、侘びの風情が色濃い。ただし、西面の四枚引障子は貴人口の役を果たした構えである。池を望む北面と貴人口の西面の2方向に大きく張り出した庇には、ここでも桁受の柱がない、大胆な技法が採用されている。
 ここは、冬の夜長に大炉を囲んで夜話するにも、涼風を入れて、新緑のあるいは錦繍の紅葉を愛でるにも良い、季節に遊ぶにふさわしい席である。
写真12 大炉の間写真13 大炉の間 床

(3)「萩」
 さらに「残月」より東へ突き出された渡り廊下の先に、傾斜深き藁葺き屋根に覆われた、僅か1畳中板の草庵茶室「萩」の間がある。

図5 茶室「萩」平面図および展開図
 一畳中板とはいえ、道庵囲いで仕切られた1畳の手前畳を加えれば、主客ともに2畳中板の広さとなる。炉は逆勝手向切。これはなかなか茶巧者でなければ創造し得ない、また使いこなし得ない卓越した構えである。手前を助けるための道庫が添えられているのも、隠者の風にふさわしい。
 壁には躙口と3つの下地窓と風炉先窓と、窓を多く設けて、天井には平天井と駆込天井の2枚を収めるなど、室内に広がりが感じられるように演出している。床は無く、西の壁一面を壁床としたと思われるが、現在は軸釘や花釘が見当たらない。おそらく校正の改修の折りに釘が埋もれてしまったものと思われる。
 主客の間に立つ南天と思われる奇木の中柱が、床柱に替わる重要な草形の役割を演じている。一方で、道庵囲いの上部に置かれた桐柾目の欄間板や席の中央に横たわる赤松中杢の板が、茶室全体に品格をたたえている。
 実に草庵茶室として申し分のない高密度な空間がつくられており、これならば多くの茶室を見聞している眼の越えた数寄者たちを向こうに回して、多いに唸らせたことであろう。
 誠に心をゆるす友と、打ち解けての席は、さぞ仙境であったことでしょう。
写真14 萩の間写真15 萩の間
写真16 萩の間写真17 萩の間

3.徳次郎邸をめぐる茶の湯について
 藤田伝三郎が美術品蒐集を始めたのは、廃仏毀釈の嵐が吹く明治10年前後頃からと、比較的茶道具の値段が安い時代からであった。伝三郎が、星ヶ丘茶寮で売り立てに出て馬越恭平が既に落札した「田村文琳茶入」を是非譲ってほしいと馬越に持ちかけた明治26年(1893)頃、伝三郎は既に52歳、本業の大日本土木(現大成建設)等の運営から次の展開を目する困難多き興産事業(小坂鉱山の経営、児島湾の干拓)に没頭していた。この頃、後に東都の茶の湯界をリードしてゆこととになる益田鈍翁は45歳で、弟の克徳に勧められて茶道を始めたばかり。同じ頃、高橋義雄(箒庵)は32歳で大阪支店長に赴任、その部下で働き、売り立ての手伝いをして眼を開かされた小林一三(逸翁)は若干  歳であった。かくの如き世代の違いがあった。
 次男徳次郎邸は、長男平太郎邸と同様に、ほとんど父親である伝三郎自身による縄張、指図によって普請されたものと推定される。その竣工の大正3年(1914)を待たずに、伝三郎は2年前の明治45年(1912)3月30日に72歳で他界している。この時、型物交合番付当方大関(最高位)の交趾大亀交合を9万円で落札した報を聞いて後、息を引き取った逸話で有名である。
 この藤田徳次郎邸の茶室棟で実際にどのような茶の湯が展開されたのか、残念ながらそれを直接物語る茶会記などは残されていない。
 東都茶会記によれは、高橋箒庵は長男平太郎の綱島本邸の茶会に、大正5年(1916)4月5日茶室芦庵披き、同年11月21日伝三郎追善茶会、大正6年(1917)10月4日名残茶会、大正7年(1918)11月24日七周忌茶会の計4回招かれて、その模様を詳細に記録している。その流れは、概ね懐石と濃茶を二畳台目ながら白張襖を開いて三畳台目と為す「芦庵」または原叟好四畳半の「会庵」で、その後八畳広間の「時雨亭」で薄茶および後段が振舞われたち、大書院にて香雪翁遺愛の品が展覧される形式などが多く述べられている。
 また、箒庵は大正銘器鑑の執筆のため、しばし関西を訪れ、綱島本邸の大書院にて名物茶器の調査取材を行っている。
 箒庵が徳次郎と会うのは磯野良吉氏の摂津東山荘での茶会に同席した際で、この時徳次郎氏の勾玉蒐集に話が及び、箒庵がその閲覧を所望すると、徳次郎は京都夷川の邸宅は改修なので木屋町「吉富」での晩餐に招待し、茶箱での茶事を楽しみながら道具飾りを披露している。というわけで、残念ながら次男徳次郎邸の茶室棟に招かれた記録は無いため、どのような茶会がなされたか詳らかではないが、本邸での様子から凡そ類推することができるのではないだろうか。


4.茶室棟の特徴と意義について(まとめ)
 以上の茶の湯事情などを勘案したうえで、藤田徳次郎邸の茶室棟の特徴と役割を以下のようにまとめることができる。

1) 茶室棟は、邸宅全体の中で、来客に便利な場所を与えられ、且つ庭園の中で象徴的な役割を演じていること。
2) 茶室棟は、邸宅と回廊で結ばれ、玄関・待合や大書院・洋食堂・数寄屋座敷などと連携して多様なもてなしに応用活用できるようになされていること。
3) 茶室棟の中にも「真行草」各段階の茶室を設けていたこと。すなわち、数名の数寄者を招いての茶事の舞台となる書院に表千家の「残月亭」写を、やや崩した野趣ある庵に「大炉囲い」を、草庵茶室に「一畳中板」で、と役を良く心得て按配されていること。
4) 特に、極限まで狭く一畳中板の「萩」は、点前畳の台目との間に道庵囲いを施すなど、創意工夫に満ちていること。

 以上、総じて云えば、関西における近代数寄者の茶室棟として、古典的な伝統と教養、近代的社交の機能と配置、茶人個人の創意工夫を併せ持った施設であったと云えよう。

参考文献:
・大阪府教育委員会「大阪府の近代和風建築 大阪府近代和風総合調査報告書」 平成12年
・大川三雄「近代和風建築を支えた工匠に関する史的研究」住総研
・ 井上敬太「淀川邸記」昭和33年
・ 財団法人藤田美術館「藤田傳三郎翁 生誕百五十年記念 館蔵名品展図録」 平成3年
・ 高橋箒庵「東都茶会記」淡交社 平成元年
・ 高橋箒庵「大正銘器鑑」アテネ書房 平成9年
・ 熊倉功夫「近代数寄者たちの茶の湯」
  河原書店 平成 9年
・砂川幸雄「藤田伝三郎の雄渾なる生涯」
  草思社  平成11年
・鈴木皓詞「近代茶人たちの茶会」
  淡交社  平成12年

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