池坊短期大学紀要 (30号)2000年03月
論文:「香席研究 「東山泉殿香座敷絵図」をめぐって」
(池坊短期大学助教授) 岩崎 正弥

1.はじめに

 池坊短期大学は平成11年(1999)10月1日に、第3期キャンパス整備計画の締めくくりとして新装和心館1階にキャンパスミュージアム「むろまち美術館」を開館した。私は平成10年春に本学教員に就任以来、この計画のワーキンググループの一員として、主に展示ケース設計などに関与させていただいた。特に常設展示の中に香席ケースをつくる企画については、本学で御教授をいただいている志野流香道二十世家元蜂谷宗玄宗匠の御監修、京都光華女子短期大学教授太田清史先生のご指導のもと、宗匠の香席「松隠軒」を部分復元するべく、その実測の機会をいただいた。また併行して平成10年夏、志野流香道機関誌「松蔭」の企画による、宗匠と京都工芸繊維大学名誉教授(池坊文化学院長)中村昌生先生の対談(注1)の席に、私も陪席させていただいた。
 この折りに香老舗松栄堂(代表取締役は畑正高氏)が所有する巻子本「東山泉殿香座敷絵図」が披露され、両先生はその絵図を題材に御対談を展開された。その絵図には、今は無き東山殿の香座敷と、香道志野流三代省巴の好みとされる香座敷の二つが、志野流中興九代宗先の高弟、藤野専斎昌章の発意によって、並んで描かれていた。
 このような経緯によって、私は香席(香座敷)というものに関わらせていただいたのを機縁として、ここにその歴史について、その「東山泉殿香座敷絵図」をめぐって考察することとした。


2.香道の流れ

 香道の歴史について詳しく論述できる資格は私にはないが、この間に様々な書籍やご指導などにより学んだことを総合すると、おおよそ次のようなるのでは、と理解している。
 芳香を発する様々な香料は、本格的には仏教渡来とともに大陸より我国に伝来していたと思われる。特に熱を加えることで薫香を発する香木の記録は、飛鳥時代にまで遡ることができる(注2)。これらは神仏に供えることから(供香)、やがて平安朝に至って、貴族社会に至って必需のものとなり、これを自家調合し(薫物)、室内にて薫いたり(空薫)、衣服に焚きこめて楽しんだり(衣被香)、やがてその香りの優劣を競うまでとなる(薫物合せ)のは源氏物語などに詳しい。香木の輸入量はその後も大きくなり、南北朝の婆娑羅大名たちは、高価な香木を丸ごと火にくべたり(注3)、懸物寄合いの題材(闘香)としてその権勢を誇示した(注4)。
 名香に雅名が付けられ、一木づつの香(一木香)を賞玩する風が起るに及んで、足利義政公とその同朋衆や文人ら(三条西実隆・志野宗信・珠光・宗祇等)により、それらを吟味し、賞玩する遊びの方法(組香)が、同時期に成熟していった連歌や茶の湯等と呼応しながら創造されていった。
 江戸期において、これが町衆など広く全国的に愛好されるに及んで、諸芸道と同様に家元制度を形成し、主に代表的な二つの流派、御家流と志野流とが「香道家元」として整備され、現代に至っている。

3.香席(香座敷)について

 さて、「香席(香座敷)」とは何か。例えば茶を喫するために考案された部屋を「茶室」というように、即ち読んで字の如く、香を聞くためにしつらえられた部屋を「香席(香座敷)」と呼ぶ。
 ところで、この「香席(香座敷)」という言葉(注5)がいつごろから生まれ、どのような内容を現したかは詳らかではない(注6)。また古語・現代語を扱う今日の多くの事典類の中には、その言葉は見出すことができない(注7)。
 そのような状況の中では、近年に淡交社「香道入門」に載せられた中央大学名誉教授神保博行先生の解説(注8.)は「香座敷」を解説した貴重なものなので、ここに引用させていただく。

「[香座敷] 香筵を開くには特別な室は必要としないが、四季棚や志野棚ではなく、床の隣の違い棚から香道具を取り降して手前を始めることもある。それ以前の闘茶は茶とともに広い会所で催されていたと思われる。それでなければ数多くの賭物を並べる場所もないわけである。足利義政はすべての遊興に飽きて珠光を召し出し、茶を始めたというが、東山殿(銀閣寺)の十ニ楼の第一は東求堂で居室・持仏堂そして四畳半の茶間である。茶室の始りともいわれるが、第八の「弄清亭泉殿は御香之座敷也」と『逍遥院殿御記』にある。十畳と八畳のつづきで床の間や違い棚に工夫がある。香道家の間ではこの弄清亭が香座敷の本家とされている。江戸時代には弄清亭の図面とともに「志野流宗温好香座敷図」として、志野三代省巴(じょうは)不寒斎が香筵がようやく事多くなったので改善したという図面も流布している。基本的には同じで大差ない。」

 ここに語られているように、「聞香には特段の室を必要としなかった」が、「香道家の間」で、「東山弄清亭泉殿を香座敷の祖」とみなし、「志野流三代省巴好みの絵図」が流布しているという。おそらくこの絵図は門弟の中で香座敷の規範として珍重されたものと思われる。ただし、当時の弄清亭や省巴好みの香座敷は既になく、その類例遺構も詳らかではない(注9)。室町期の文化人たちは実際にはどのような座敷で香を楽しんでいたのか。

   そういった意味で、今回改めて詳しく拝見させていただいた「東山泉殿香座敷絵図」は、「香席(香座敷)」という言葉の誕生を示す、非常に貴重な記録といえる(注10)。
 以下にその本文と解読を掲載する。


    (中略)

4.東山泉殿香座敷絵図の由来

 さて、その東山泉殿香座敷絵図の全体構成は、大きく4つの内容に区分することができる。すなわち由緒が述べられた@「前段詞書」、足利八代将軍義政公が東山殿に築いたというA「香座敷弄清亭絵図」、それをもとに志野流三代不寒斎が好んだというB「省巴好香座敷絵図」、そしてC「巻末詞書」、の4つの部分である。
 そもそも、この絵図はどのような由来で制作されたのか。巻末詞書によれば、「右の香座敷寸法は志野家代々に秘伝とされてきたが、今回息子の得意庵の求めに応じてこれを写させることとした。明和ニ年三月 藤野専斎昌章」とある。この絵図の制作発起者である藤野専斎昌章が、いかなる人物でどのような状況下でこの絵図を制作させたのかを考察する上で、志野流三代省巴から藤野専斎の時代までの志野流の歴史を、たどってみることとする。

・志野流三代不寒斎志野省巴
 香は、東山文化から室町後期にかけて連歌や茶あるいは花とともに同じ文化人サロンによって会所を中心に愛玩・工夫されていった創生の段階では、まだ明確な流儀というものは無かったと思われるが(注11)、桃山時代になって「三條殿」、「篠(志野)殿」、などと香の流儀が意識されはじめることになる(注12)。このころ、香の得意と目されていた志野家三代にあたる不寒斎省巴(1502〜1571)は、隠棲するにあたって香事の一切を高弟の蜂谷宗悟(  〜1584)に託すことになった(注13)。これによって天正期に香道志野流は志野家から蜂谷家に伝えられることになり、今日に至っているのである。

・志野流九代蜂谷宗先と、藤野専斎昌章
 それから約百年後に家元を嗣いだのは、香道志野流の中興の祖とも云われる九代蜂谷宗先(1693〜1739)であった(注14)。宗先は存命40年、宗匠としては10年余りの活動年月で、先代宗栄から引き継いだ家元制度を大勢させたが、それには多くの優れた門弟の働きがあったといわれる(注15)。特に藤野専斎(せんさい)昌章(1701〜1793)は、その息子の春淳(しゅんじゅん)得意庵とともに志野流御家元蜂谷家の香道を支えた人として知られている(注16)。
 彼の師である九代宗先が元文四年(1739)が46歳の若さで死去した時、長子勝太郎はまだ17歳であったため、38歳の専斎が後見役として補佐することとなる(注17)。その後も宗家早世・不縁などが続き、十四代を無事に迎える安永五年(1776)専斎75歳の時まで、約40年間四代の後見役として多難な時代の志野流運営を乗り切ることとなった(注18)。

・絵図の制作年代と、藤野専斎昌章の制作意図
 さて、この後段詞書に従えば、藤野専斎がこの絵図を描かせたのは明和ニ年(1765)、専斎64歳。時に仕える家元の十二代蜂谷式部は在位期間僅か2年(注19)。この時期、香道人口は増加の一途をたどり、特に町人社会に広く波及していった(注20)。一門の隆盛華やかりしその時に、要となるべき家元継承を支えるために、後見役専斎の心労も大きかったに違いない。
 ではもういちど後段詞書に注目しよう。「右の香座敷寸法は志野家代々に秘伝とされてきたが、今回求めに応じてこれを写させることとした。藤野専斎昌章」という表現は、本来ならば志野家宗家が自分の実子に相伝する時のそれである。
 しかるべき相伝をなすべき家元に代って、後見役専斎がその大役を努めていたことが推察される。

・足利義政公と東山泉殿弄清亭
 改めて、冒頭の前段詞書に戻ることとにする。この大意は、
「東山慈照寺は足利義政公によって築かれた御殿で、そこに十二の御遊殿があった。(中略・其々の内容が語られる中で、)第八番目の弄清亭が薫香を遊ぶための御香座敷であり志野某が作ったという。この十二箇所の内、東求堂と二重閣(銀閣)のニつのみが残ったこと、弄清亭泉殿の図式は、志野家の先祖が奉願なさるので御香座敷の此の図を残した。当家(藤野家)も志野家代々にしたがいてこれを伝えるところである。」と。ここに、流儀の始祖を足利義政公に遡ってこれを継承することが明確に謳われている。そしてそれを象徴的に示すものとして、義政公が東山殿の中に作られた香座敷「弄清亭」が語られ、そして描かれるのである。
 さて、このように語られた弄清亭は実際に東山殿にあったのであろうか。それはどのような建物であったのか。そこでどのような香がなされていたのか。記録を辿ってみることとする。
 隠涼軒日録によれば、東山御殿に十の楼閣があったという(注21)。また先に触れられていた逍遥院御殿記に十二楼の第八に「弄清亭泉殿は御香之座敷也」との記述がある(注22)。また、「五月雨日記」には、義政公が東山泉殿において文明十年(1478)11月16日に「六種薫物合」を、翌年の5月12日には「六番香合」を嗜まれたとの記述がある(注23)。
 こうしたことから、東山殿に弄清亭と呼ばれる泉殿がり、ここで香の遊びが行われていたことは事実であったものと思われる。
 しかし、その建築の内容についてはほとんど記述されていない。東山殿は義政公逝去の直後から略奪が進み、80年にして銀閣を残して全く荒廃したと伝えられ(注26)たが、江戸期に入ってい現在に近い姿に再興された(注27)。三代省巴の晩年までは九十年、絵図が描かれた時期までは約276年が経過したことになる。


5.二つの香座敷絵図を比較する

 そこで、いよいよ二つの絵図を比較してみることにする。その絵図の特徴は、両者の「共通点」と「相違点」がそれぞれはっきりと見て取れることである。実はそのことが、この絵図の大切な役割でもあったと推察される。

(1)両絵図の共通点
 一見して両座敷の基本的な構成は共通していることがわかる。すなわち

  ・両座敷は十ニ畳敷である。
  ・両座敷の東南に、縁側を介して庭に面する。
  ・両座敷の長手を北面に床・棚などが配される。
  ・両座敷の西側に、次の間を置く。
  ・両座敷の床廻りや障壁は白貼りとする。
  ・両座敷には大小二つの火燈口がある

 などの諸点が挙げられる。特に東南の縁側は、かつて池に面していた名残であることが見て取れる。こうして省巴好の香座敷が東山殿泉殿の形式を色濃く継承していることが表現されている。

(2)両絵図の相違点
 両者の相違点も一目でよくわかるように描かれている。東山殿泉殿とくらべて省巴好香座敷に工夫された点を指摘してみると、

  ・東南の縁側の先に池が無い
   (省巴の屋敷が池泉に面しなかったか)
  ・床の脇に棚・天袋・地板が整えられている。
   (書院座敷の定型に準拠されたか)
  ・火燈口の取り付き方が改良されている。
   (香道の点前に適応した位置に修正か)
  ・次の間との障壁が四枚引襖戸となった。
   (両部屋が一体に利用できるよう改善か。)

 など機能的で、新時代な工夫されているのがわかる。

(3)不審な表現とその理由について
 さて、特に前者の東山殿泉殿弄清亭絵図に関して、建築史的な視点からの疑問点を2つ指摘しておく。

  ・火燈口が室内の出入口に多用されている
 両図ともニつずつ襖壁に空けられた火頭窓型のくぐり(絵図には「火燈口」と記述)が多く見いだされる。しかし、このくぐりは、可動の襖戸部分がが描かれていないので、引き戸で開け閉てできなかったようである。
 火頭窓は、現存する銀閣の外壁窓にも見られるように禅宗建築から生まれた意匠である。しかし、この時代にこのような形でのくぐりが室内の出入りに作られていた事例を、私は寡聞にして知らない(注26)。時代が下がって茶の宗匠によって草庵茶室が工夫されるに及んで土壁を繰りぬいたり板を繰りぬいたくぐりが生まれてくるのであるが、これも引き戸で開け閉てできなければ、落ち着きの無い部屋となったのではないか。
 私はこの火頭口は、その形が東山殿銀閣を連想させることに主眼があったのではないかと推察するのである。

  ・泉殿としてはやや閉鎖的に見える
 「泉殿」と呼ばれる建築は、平安時代の寝殿造邸宅において池泉に翼廊で張り出された先に建つ開放的な建築を起源とする。その後、洛中で池の上に張り出して作られた納涼のための建築を広く泉殿と呼ぶようになった。
 この絵図の東山殿泉殿も、確かに池泉に張り出したものとして描かれている。しかし、次の間との間を引き違いの襖ではなく、固定的な障壁で仕切っており、やや閉鎖的な作りと見える。
 香を静かに聞くためには、多少の閉性は求められるかもしれないが、間仕切りを固定的な障壁にしては、納涼を目的とした夏季には困ることになる。既に引違の襖戸は導入されている時期であり、同じ図中の控の間には引違の襖が描かれている。
 この疑問を解くヒントは間仕切り壁に書かれた「白ハリ金泥ニテ四季花鳥絵ヲ」の記述にあると思われる。すなわちこの金泥四季花鳥図の意匠は、「志野折り畳紙」をはじめとする志野流香道具の定番の意匠なのである(注26)。
 私はこの固定の障壁は、金泥四季花鳥図の意匠が東山泉殿弄清亭に壁装としてしつらえていたことを示すための表現ではなかったかと推察するのである。


6.まとめ 東山泉殿香座敷絵図の真意

 これらの比較による私の考察をまとめると、次のようになる。

・東山泉殿弄清亭は、納涼のための楼閣として実在していた。またそこで香会も行われた可能性はある。ただし、香会は連歌や茶等とともに、当時は会所などを中心として様々な座敷で試みられていて、弄清亭が香座敷として設計されたか、その内容は不詳である。
・絵図の発意者・藤野専斎昌章は、香道志野流後見役として、その流儀の興隆期でありながら蜂谷家当主が相次いで早世する多難な時代にあって、宗家に代って志野流を盛りたてるべく心を砕いていたと思われ、この絵図もそうした志から発意されたものと思われる。
・すなわちこの絵図は、香道志野流が、足利義政公のもとで志野宗信によって興され、三代志野省巴から蜂谷家に嗣がれてきた「正統性」を明示し、足利義政公・志野三代省巴・現蜂谷家の三点を繋ぐ重要な役目を担っていた。
・その象徴的な舞台として、諸記録に「御香之座敷也」との記述がある東山殿泉殿弄清亭を、その「香座敷」の源流として仮託し、省巴好香座敷絵図を介して、専斎その時代の香座敷と連繋して位置付けたのではないか。
・そして東山泉殿弄清亭と省巴好香座敷の絵図は、「共通点」は「義政公よりの伝統の継承」を、両者の「相違点」は「後嗣宗家の創造的改良」を意味するよう、それぞれわかりやすく表現された。また。火頭口は東山殿を、障壁は志野金泥四季花鳥図を表現するために描かれているのではないか。

 こうして、足利義政公を祖と仰ぎ、その弄清亭を香座敷の発祥とする伝説が、視覚に訴える形で表現されたのである。


7.明治に復元された銀閣寺弄清亭

 伝説は、しかし往々にして事実であることが多い。泉殿弄清亭は、絵図に描かれたような形で存在していたかもしれないし、そうでなかったかも知れない。
 少なくとも伝説は時に具体的な姿をもって蘇ることがある。
 この東山泉殿弄清亭に具体的な形が与えられることになったのは明治二十八年であった。銀閣寺境内、東求堂に程近い北側に聞香のために設計された香座敷が営まれ、「弄清亭」と名づけられたのである(注28)。これが現代私達が目にすることのできる銀閣寺弄清亭である。
 この建設にあたって、これまで伝承されていた「東山香座敷絵図」が多いに参照されたものと思われる。当時すでに確立されてきた香道に適した座敷の形を継承しつつ、東山殿の遺香を漂わせる香座敷への工夫がなされたのである。基本的な構成としては、

  ・座敷は(十二畳を)十畳とする。
  ・座敷の東南に、縁側を介して庭に面する。
  ・座敷の長手を北面に床・棚などが配される。
  ・座敷の西側に、次の間を置く。
  ・座敷の床廻りの壁や障壁は白貼りとする。

と、ほぼ絵図の泉殿弄清亭および省巴好香座敷のものを踏襲している。
 それらとの相違点としては

・座敷の北側の2間半を、床(一間)・下座床(一間)・壁(半間)として配する。
・付書院を、床の奥行きの中で収める。

などが挙げられる。これらは少しでも東山泉殿のイメージを取り入れようとする工夫と思われる。ただし大小二つの火燈口はもう無い。
 このようにして「伝統」と「創造」を充分考慮された銀閣寺弄清亭は、水屋を介して小間茶室をもつ、聞香のために申し分の無い定型として、香席の本歌のひとつとなっている。


8.香道志野流家元・松隠軒

 現代の香席の本歌は、現志野流家元二十世蜂谷宗玄宗家にある「松隠軒」である。
 蜂谷家は維新後、尾張徳川家の縁により名古屋に在住して困難な時代をしのぎ、やがて流勢盛んとしたが、名古屋大空襲で自邸を焼失、先代の宗由はその復興に努め、昭和四十四年に銀閣寺弄清亭に準ずる香席「松隠軒」を完成させた(注)。その基本的な構成は

  ・座敷は十畳とする。
  ・座敷の東南に、縁側を介して庭に面する。
  ・座敷の長手を北面に、東から床・下座床(天袋・違棚・地板)を配す。
  ・座敷の西側に、次の間を置く

 と、基本に忠実である。独自の特徴としては

  ・座敷の北側の2間半をほぼ二等分して、床・下座床を配す。
  ・付書院を、床の奥行きを超えて配する。
  ・床廻りは白貼りながら、壁は聚楽壁、襖戸は唐紙(信夫)とする。

などである。なお、本学むろまち美術館の香席展示ケースは、この香松隠軒を採寸して床まわりを写させていただいたものである。


9.現代の、そしてこれからの香席

 香道は、先の大戦後を乗り切って、やがてかつて無く幅広い層から大きな注目をあつめるようになった。特に近年は情報化社会の発展の中で、嗅覚を軸とする多様で高貴な文芸遊興の感覚世界に、新鮮で真剣な関心が寄せられている。聞香会が各地で開かれる機会も多くなるに従って、聞香会を開催するのにふさわしいしつらいの座敷、すなわち「香席」の需要が高まりつつあるようである。香席の新しい時代が訪れようとしている。
 この研究の成果として、これから香席を設計するにあたっては、次の点に留意されることを薦める。

◎参考例:現弄清亭(銀閣寺)・松隠軒(志野流・名古屋)を充分に参考とすること。特に以下の基本的な構成は遵守すること。
◎原則:
  ・座敷は十畳とする。
  ・座敷の東南に、縁側を介して庭に面する。
  ・座敷の長手を北面に、東から床・下座床(天袋・違棚・地板)を配す。
  ・座敷の西側に、次の間を置く(注30)
  ・床廻りは白ハリとする。
◎動線計画や着席位置・香道具飾りのレイアウトは図のとおり。
◎アレンジ
  ・付書院の構え・下座床の構えは、香道具の飾りつけを考慮に入れつつ変化を加えて良い。

 香席もまた、茶室と同じように古典に学び基本を守りながら、様々な工夫があって良いと思われる。茶室として兼用することや、水屋を介して他の小間茶室との連繋など、バリエーションは様々に広がってゆく。また、立礼香席への展開も楽しみである。今後の数寄屋建築の設計において、右記の配慮によって、香席としても使える座敷をたくさん生み出すことができるのである。
 こうした、聞香に使用するに適した広義の「香席」が、今後多く各地に作られることにより、香道がより一層発展することを期待する。また本学美術館の香席展示ケースや、香道をテーマとする展示内容が、その道の発展に多いに寄与することを祈るものである。
 なお、このような研究の機会をお与えいただきました蜂谷宗玄宗匠、香老舗松栄堂畑正高さま、京都光華女子短期大学教授太田清史先生に心より御礼もうしあげます。

●参考文献 ・参1 「香道への招待」   北大路功光     宝文館
・参2 「香道(増補・改訂)」杉本文太郎・矢野 環 雄山閣
・参3 「香道ものがたり」 神保 博行    めいけい出版
・参4 「香道入門」淡交ムック           淡交社
・参5 「桂香」             志野流香道松陰会
・参6 「松隠」(志野流香道機関誌)第二十一号
・参7 「松隠」(志野流香道機関誌)第二十二号
・参8 「金閣・銀閣名宝展」相国寺創建六百年記念読売新聞社
・参9 「君台観左右帳記研究」松島宗衛     中央美術社
・参10「逍遥院御殿記」
・参11「隠涼軒日録」
・参12「実隆公記」
・参13「家元制度の研究 西山松之介」
・参14「茶道聚錦 宮上茂隆」
・参15「日本庭園のみかた」 宮本健次  学芸出版社
・参16「和風」茶道上田流機関誌「香の文化史」畑 正高
・参17「茶と香」西山松之介       学芸書林


●注釈
注1.[参6]四〜十三頁に対談内容が掲載されている。
注2.「日本書紀」には、沈水香木が淡路島に漂着し朝廷に献上したとの記録が推古天皇三年(五九五)にある。
注3.「太平記」には貞治五年(一三六六)佐々木道誉が大原野の花見で「百服の本非を飲て懸物如山」「両囲の香炉を両机に並べて一斤の名香を一度に注☆上げた」とある。
注4.「建武記」には、建武二年(一三三五)の二条河原落首この頃都に流行るもの(中略)茶香十注☆の寄合」と風刺。
注5.この私の論考では「香席」は聞香のためにしつらえられた部屋を広義に指し、「香座敷」はそのうち書院風座敷のものを狭義に指すこととした。ただし両者の分岐は極めて曖昧であるので、絵図の表記や現在の呼称により適宜呼び分けることとして、総じては「香席(香座敷)」と表記することにした。なお絵図の中ではさらに「一間の付書院のあるものは「香書院」と呼んでも苦しからず」ともある。
注6.室町期の関連文献(看聞御記・実隆公記等)の文中に「香席・香座敷」なる言葉があるかどうかデジタル検索を御願いしたが(野村美術館学芸部長 谷晃先生の御協力)、今のところその記載が見つからないとのこと。
注7.岩波広辞苑・角川新字源を始めとする現代語事典・古語事典・漢和辞典等にも「香席・香座敷」なる言葉は発見できない。
注8.[参4]二十九頁 「香りと香道の歴史」 香座敷
注9.現在銀閣寺にある香席弄清亭は、明治二十八年に再建されたものであり、後述する。
注10.[参1]八八頁 ここに、村上孝介氏蔵として巻子本の写真が掲載されている。また[参4]ニ九頁には志野流宗家蔵の半紙本が掲載されている(これは松隠軒の欄間に額装で掲げられている。2つの絵図のほかに前段詞書・後段詞書はない)。香道愛好家の手元などにどれほど同様作品が残されているのか判らない。
(注11)[参3]四十八頁 「室町時代末東山文化の頃から桃山にかけて、実隆を頂点とするど堂上柳栄営の文化人グループの間で、香合せ、闘茶から、文学の美意識を基盤とした組香を中心とする香道が創成されてきたことは間違いない。唐物による広間の茶から、和物の美に目覚めた草庵の茶道が生み出された時期に、全く同じ文化人グループの手によって香道も誕生したのである。この時期には、香も茶も流儀なぞあるはずがないのである。宗信およびその子宗温の香書というものが世に伝流し、十七世紀後半上梓されていた「香道秘伝書」にも収録されているが、流儀を思わせることは何も書いていない。」
(注12)[参3]四十九頁 「桃山時代ごろから山上宗二記には、「公家にては三條殿、武家にては篠殿、此の両家は、香炉並びに名香の御家也。」とか、灰の押し様について、「是は御家とて三條殿流也」「珠光かかり。篠流殿は・・・」というような表現が見られる。この頃から流儀が意識されはじめたのであろう。」
(注13)[参5]八頁 「志野流香道三代目の志野流省巴は、宗温の次子で俗名弥次郎信賢、落髪して省巴、不寒斎と号した。和漢の才に優れ、世に名高き香道の宗匠として君臨するも、壮年の頃より多病にして公務塵世を嫌い、香道の一切を高弟蜂谷宗悟に託して京都市中を離れ、嵯峨に隠遁したといわれる。」
(注14.)[参3]一ニ五頁 「志野流香道では、初代の志野宗信は別格としても四代目を継いだ蜂谷宗悟(ここから志野流は志野家から蜂谷家に移り今日に至っている)と志野流香道を関係させ、家元制度を確立した九代宗先の三名が特別に扱われている。」
(注15.)[参5]一八頁。「(八代)宗栄から(九代)宗先に至るこの時期、とりわけ日本芸道における家元制度が確立される中で、わずか十年という短い間に今日の香道の基礎を築いていったということは、静誉上人、中村元仙、近藤有元、横山典膳等の同門者を始め、彼らを取りまく中に多くの有能な門人達がいたからに他ならない。(中略)『志野流香道系図及沿革』には藤野主人昌章以下四人の熟達(単なる皆伝者ではなく、伝授や家元の補佐、後見にまで関与するほどの権限を有していた)が記載され、江田八郎右衛門世恭以下十人、計十六人の執達者が列挙されている。」
(注16.)藤野専斎昌章(一七0一〜一七八三)は九代家元宗先の高弟。左馬之介・春淳・朴翁・心源とも号す。「香道規範」「六十一種秘名」「香道之大意」「香道打聞」「香事むさしの」などを著す。
(注17.)[参5]一八頁 「周知の如く藤野昌章は宗先亡き後、次代勝次郎の後見として活躍すると共に、秘伝書の整備にも大きく携わり、その多くを宝暦年間にまとめあげている。」
(注18.)[参5]二十〜二十ニ頁 「(筆者要約)その十代勝次郎も九年後の寛延元年(一七四八)に早世し、弟にあたる豊光が二十一歳で十一代を継ぐがこれも十六年後の明和元年(一七六四)早世。岡本家から養子式部を迎え十二代とするが、二年後の明和三年に不縁とし、新たに岡本家から養子式部豊充を迎え十三代を継承する。その後の十四代を安永五年(一七七六)に継いだ蜂谷多仲貞重は、藤野昌章の甥、春昌の次子として出生し伊予岡本家猶子を経て蜂谷家入りした。」
(注19.)[参5]二十一頁 「十ニ代蜂谷式部、十三代蜂谷式部豊充については、何れも詳しい文献、覚書等今日これを探すことはできない。十一代豊光が亡くなったのが明和元年(一七六四)八月。そして十三代式部豊充が家元継承したのは明和三年(一七六六)。この間わずか二年という短い期間が十二代式部の活動期といえる。」
(注20)[参5]二十一頁 この時期の香道人口の増加については、蜂谷家旧蔵の「諸国門人帳」がそれを如実に物語っている。
(注21)
(注22)
(注23)[参1]八十八頁 「王朝で用いられた練香であるところの薫物は、室町時代に至って、香木を用いる香合と次第に交叉するようになり、のち、一木香による香道が成立する。東山文化の中心人物たる義政自身が東山泉殿において主催した香会の記録が「五月雨日記」に出ている。文明十年(一四七八)十一月十六日に「六種薫物合」と、文明十一年五月十二日の「六番香合」との二つの香会である。」
(注24)[参15]七十七頁 「一五七0年には、興福寺の僧英俊は「東山殿ノ旧跡名ノミ、アバラヤノ民家ニマジリテ一宇見ヘ了」と日記に記しており、このあばらやにまざって建っていた一宇というのは、おそらく銀閣であったのでしょう。とにかく、義政の死後八十年にして慈照寺は既に奪いつくされて、全く荒廃していた。」
(注25)[参15]七十ニ頁 「その後江戸時代に入って、慈照寺は再興のチャンスを迎える。一六一五年相国寺の僧の見聞記事に、宮城丹後守豊盛が慈照寺を再建し、池を清掃し、諸道を一新するなど新奇な景観が造り出されたという(中略)。その後は「都林泉名勝図会」等から、そのまま現代に至ったことがわかる。」
(注26)書院建築において室内の「窓」としてこの形が使われていることはある。西本願寺の書院や飛雲閣書院の上々段の間などがその好例である。しかし、このように襖を火頭窓型に繰りぬいて、人の出入口に使用する例はあったであろうか。
(注27)[参16]三十五頁 「この意匠も、志野が折った事からその名を得たという「志野折り畳紙」と呼ぶ香の包み紙の意匠として、また香道具の蒔絵や掛け物の表具の意匠などとして、時代を問わず好まれてきた意匠である。」
(注28)この弄清亭再建の経緯については大本山相国寺および銀閣寺には記録が残されていないとのこと。伝聞によれば、このころ銀閣寺住職は香道志野流第十七代家元蜂谷百枝の門弟であったことがその機縁となったものと思われる。初香席は明治二十八年十月七日。手前は負野(栄易)、執事は熊谷(直行)とか。
(注31)[参1]二十九頁
(注30)逆勝手の座敷(南面しつつ、東西の向きが逆の座敷)の場合には、それに準じた逆勝手の手前が志野流では近年考案されているという。但し新築の場合であれば、なるべく本勝手で計画することをお勧めする。

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