新・市中の山居   「茶道雑誌」 2002年01号
吉兆高麗橋店容膝軒
(池坊短期大学助教授) 岩崎 正弥

 「吉兆」の創業者の湯木貞一(1901〜97)は、神戸界隈にあった父親の店「仲現長」で16歳から30歳まで板前修業をし,昭和五年(1930)に大阪新町で「吉兆」を開業しました。間口一間二分五里で、カウンター8席と椅子2席ほどの小さな店からの一歩でした。
 茶の湯の精神を基軸に、よい器に季節を貧良く表現するこを真摯に心がけて、やがて贔屓の旦那集にも可愛がられて、茶事懐石を手伝うなかで、その機微を教わってゆきます。37歳で大阪畳屋町に移った時には店は間口三間となり、人も多く使い、だんだんと発展しましたが,戦災で焼失し、一時芦屋に疎開。昭和22年に平屋町で再開ののち、現在の「吉兆高麗橋店」を昭和24年に開店させました。
 その建物は、もとは古美術商の児島嘉助氏の店として昭和12年に竣工したもので、施工は「大工太平記」や伝記「大工一代」などで知られる数奇屋棟梁の平田雅哉です。〈BR〉 もそも高麗橋筋よりひとつ南の伏見町筋と呼ばれるこの界隈は、江戸時代より天下の道具屋町として知られていました。御堂筋から堺筋の間に最盛期は130軒の古美術商が並んでいたとか。客は馴染みの店の座敷に上がりお茶を一服悸喫しながら主人・番頭らとゆるりと談笑し、やがて相応の古美術品が出されてこれを吟味する、といった習いでした。児島の店もさまざまな多くの客を同時にさばくために、大小たくさんの座敷があったわけです。
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この一角だけが空襲に焼け残り、嘉助氏逝去後に湯木氏がその店を譲りうけたのでした。同様に児島京都別邸は、「吉兆嵯峨野店」となり今日にいたっています。以来、主人の湯木貞一氏の指図と平田棟梁の腕により、少しずつ工夫を重ねて、現在の独特の華やかな数寄屋空間が仕上がりました。
戦後、吉兆の端正で創意工夫に富んだ美しい懐石料理は、関西の財界人をはじめ幅広い方々の高い評価を得て、日本料理界に大きな影響を与えました。そして後継者や門弟にも恵まれ、国賓の和食接遇には必ず出仕するほどの、当代一流の地位を築いたのでした。
また、料理を引きたてるために収集した器や古美術の数々は膨大なものとなり、昭和62年(1987)に船場の南平野町に湯木美術館を開館。収蔵品は「春日宮曼茶羅」「伊勢物語石山切」など重要文化財11点を含む950点に及びます。貞一氏のその温厚な人柄と美への確かなまなざし、語り口の魅力は、随想集『吉兆味ばなし』や料理研究家の辻静雄との対談集『吉兆料理花伝』などでその一端に触れることができます。
 今はすっかりビル街となった町並みに、高麗橋店は風格をたたえた伝統的な店構えで待ち受けています。千成瓢箪のさがる暖簾をくぐって玄関を入ると、右手隅の井筒から泉水が湧き出て水神が祀られ、中潜り越しの坪庭に朱塗りのお宮の小さな祠が見え、すでになにやら神々しくただならぬ気配が漂っています。
 玄関を上がって最初に通される洋間の待合から奥の座敷「袋の間」を背景に閑かな路地が広がります。左手の腰掛待合から、中央に時代の灯籠や編笠門と小柴垣、その右手に草庵茶室「容膝軒」の姿がうかがえました。
 待合から廊下をたどると、蔀戸に釣灯籠が下がる寝殿風の坪庭に透渡殿のような橋が懸られ、その手前左手の小さな縁を一段上がると、伽藍石の塔芯から清水が湧いています。小壁で区切られて、内側の縁からも、外の露地からも利用できるこの蹲踞で、口をすすぎ水音を味わいながら、縁先からは貴人口より、露地からは躙口より席入りします。
 茶室「容膝軒」は4畳台目中柱の茶室に1畳台目の相伴席がついていて、その間仕切の上框は取り外せるので、5畳台目として広く使えます。床柱は古材をナグリにしたもので、床框は錆丸太。点前畳の皮付赤松丸太の中柱の袖壁の下を大きく刳り抜き、その向こうにある祖師堂に向かって亭主は茶を立てる構え。脇に道庫もついています。相伴席の天井は露地に向かって掛込天井となっていて、突上窓があります。
 この高麗橋店には、火灯窓のある「袋の間」、仏間の付いた「井筒の間」、霞棚が見事な「鈴の間」、洋待合のある「新座敷」、能舞台のある広間「残月の間」、天神を祀り囲炉裏に釣釜の懸かる「手習いの間」、平安朝の「蔀の間」などいずれも「花」ある座敷が数々ある中で、この草庵の茶室は吉兆料理の要として在るかのように、くめどもつきせぬ泉の音に満たされた,幽玄なる侘びの空間です。
 春秋に富む日本料理の真髄を一代で極めた湯木貞一氏の数奇の世界をしのぶ、味わい深い茶室です。
   
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