新・市中の山居   「茶道雑誌」 2001年02月号
京都ホテル京料理入船 翠明庵
(池坊短期大学助教授) 岩崎 正弥

 京都ホテルは、京都で最初に開業した本格的な西洋式ホテルとして知られています。その地は、角倉了以が開削した高瀬川の最終揚陸港「一之入舟」に近く、角倉家の屋敷と長州藩邸があった所。禁門の変の大火で空き地になったあと、産業促進の実験工房として「勧業場」が設置されていました。
 折りしも、天皇東幸のあと荒廃した京都の復興のため、博覧会の開催や琵琶湖疎水などの殖産事業により、少しづつ外国人観光客の来訪が増えてきましたが、当時、西洋人に宿舎と西洋料理を供する異人旅館はわずかでした。そこで、京都にも本格的な西洋式ホテル建設を、という待望論が沸き起こり、その候補地に、既に一定の役目を終えた勧業場の跡地が注目されました。政府は、払い下げに際して迎賓館機能を果たす本格的な施設の整備を条件にし、これを競りぬいたのは、神戸の常盤花壇の経営者前田又吉でした。
 彼は払い下げ地に、木造三階建て洋式本館を中心に、煉瓦館・和館を整えて明治22年(1889)に「常盤ホテル」として開業。翌々年にはロシア皇太子の京都宿舎となります。琵琶湖名勝の遊覧中に起った大津事件では、負傷してホテルへもどった皇太子を、明治天皇が東京より汽車で駆けつけ、翌々日の午前にはお見舞いしています。
 又吉の死後、経営は好敵手であった也阿弥楼の井上万吉・喜太郎兄弟に引き継つがれ、明治28年(1895)に「京都ホテル」の名前で改装再開業します。その年は岡崎で平安遷都千百年記念の内国勧業博覧会が開催されて、京都は人口に倍する来訪者で賑いました。また大正4年(1915)の大正天皇の御大典では、アメリカ・フランスをはじめとする16カ国の特派使節団の宿舎御用を勤めています。
 喜太郎没後、経営は井上家から株式会社に改められ、施設も昭和3年(1928)に鉄筋コンクリート建て7階のビルに生まれ変わりました。ちょうどこの年の秋に昭和天皇の御大典があり国賓宿舎を勤めています。
 終戦後は、7年間の進駐軍接収時代を経て、昭和36年(1961)には本館正面の車寄せに南館を、昭和44年には裏側に新館を増築して近代化を図りつつ、京都の迎賓館として、市民の応接間としての役割を大いに果たしてきました。
 そして平成6年(1994)、平安建都千二百年の年、現在の高層棟にリニューアルオープンしました。この折に、それまでテナントに任せていた和食部門をホテルの直営店とし、6階にオープンしたのが「京料理 入船」です。この名前は一之入船に因むものです。
 立地は、低層棟の屋上を庭園にしつらえた6階の、山を臨む絶好の場所にあります。廊下から玄関を入ると、石の小橋を渡って一段高い椅子席の店内へ登る趣向。ここからは、生垣で下界の家並みが隠されて、松や楓越しに比叡をはじめとする東山連峰の雄大な眺めを一望に収めることができます。この景色の左手にたたずんでいるのが、茶室「翠明庵」です。
 店内を北に進み、さらに石段を踏んで侘びた玄関を上がると、廊下を隔てて北側に茶室、南側に座敷、奥に水屋からなる茶寮に至ります。
 茶室は四畳半本勝手、床柱は皮付赤松丸太、床框は北山杉天然絞丸太、天井は、点前畳の上が網代天井に、客座の上は吉野杉中杢竿縁天井の二段構え、窓の少ない簡潔で落ち着いた造りになっています。
 一方座敷のほうは、西に向かって右手に棚、左手に床、さらに左に付書院を構え、床は北山杉天然絞丸太を床柱と床框に使い、付書院では肥松を地板に、杉柾板に瓢箪柄の透かしを欄間に取り合わせ、天井は杉中杢の目透かし張りと、明るく瀟洒な造り。障子窓からは南側の庭園と東側の展望が楽しめます。
 どちらも総体に、現代的で明朗なしつらいになっています。ここは貸席として一般の方も利用でき、小人数のお茶会やお茶事にぴったりの大きさ。定期的にお茶会が催されています。特に点心や懐石料理のほうは心配ご無用。茶・花に心得のある料理長の堀江隆雄氏が腕を振るっています。
 従業員ひとりひとりに京都ナンバーワンのおもてなしの心が受け継がれている、創業百十余年の伝統と、最新の施設、抜群の立地が整う、「京都ホテル文化」をお楽しみいただけることでしょう。
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