新・市中の山居   「茶道雑誌」 2001年01月号
近藤家の茶室と庵
(池坊短期大学助教授) 岩崎 正弥

 京都府南部の城陽市、その中ほどの近鉄寺田駅の近くに、近藤家という江戸時代初期より土地の庄屋をつとめた旧家があり、江戸時代中期ごろに建造されたとみられる主屋と数寄屋の離れ座敷が残されています。
 同家ではこれらの国の登録文化財の建造物だけでなく、正月飾りやお盆の飾りなどの年中行事も400年余にわたって受け継がれ、同地の民俗文化の貴重な資料となっています。25代目当主の近藤良朋氏は美術・工芸に造詣が深く、斯界に多くの親戚や知己がいらっしゃって、茶数寄が昂じて自作の茶室も構えている由。そこで今回は、近藤家の正月風景に取材して、主屋の正月飾りと、茶座敷の道具飾りなどを拝見いたしました。
 家伝によれば桃山期までは合戦に加わっていた武士でしたが、江戸時代初期に帰農し、当地の庄屋に任ぜられ、乾城太兵衛を名乗りました。城陽市歴史民俗資料館の調査によれば、現在の主屋は、宝暦12年(1762)奉行所宛に「百姓太兵衛」が屋敷普請の願書を出していることから、この時期に建てられたことがわかります。
 門をくぐると大きな玄関から土間、そして田の字型に並ぶ座敷に導かれます。その西北の主室八畳が年中行事の中心となる舞台で、北より床、小床、仏壇が設けられています。
 正月が近づくと、この床に三幅対の軸が飾られます。中央の軸には天照皇大神・八幡大神・春日大社の名が、右には大国主命、左には伊邪那岐・伊邪那美の名前があり、あたかも日本の大神さまが勢ぞろいされたかのようです。床の落掛けに大きな注連縄が、向って左を元に右を末として張り渡されて、床の間はすっかり神棚となります。ウラジロの葉の間に下げられる房の数は、元から七、五、三と決められ、その下には、中央に三方に載せたお米と蜜柑、その脇に瓶子・灯明・榊が飾られます。小机に敷かれた筵が、豊葦原の瑞穂の国の新年にふさわしい素朴な味わいを現しています。
 中央の小床には公家の筆による祝いの和歌色紙が掛けられ、当家と公家衆との縁がしのばれます。その手前に酒器と盃器、おせち料理の入った重箱が置かれます。
 大晦日の夜八時ごろに、当主が氏神の水度(みと)神社からいただいてきた火を、床の灯明に灯して年を越します。元日は、早朝五時に当主が若水を汲み、神棚や離れ座敷など屋敷内の数カ所を参拝し、灯明の火を移します。おくどさんに移した火で、家人は最初のお雑煮を炊きます。朝八時ごろ、主室の床の前で家族一同がそろって新年の挨拶をして、祝いの膳を囲み、盃事を行います。そして膳を閉じる際の留酒盃は、元日は当主、二日は長男、三日は孫が行うことになっています。
 さて、主屋の北西に隣接する離れ座敷は、当家に伝わる文化5年(1808)頃の家屋敷図から、当初は居宅の南西に書院座敷として建てられていました。伝承によれば、同所を所領する領主をお迎えするために御成門を造営し、他家(京都の伏見)から座敷を買い求め移設したもので、古図には三畳の茶所や浴室が描かれていました。その後、この書院座敷は、大正5年(1916)に主家の北西に移築されましたが、この際に、残念ながら古図にある茶所や浴室などは失われてしまいました。もし残っていれば、御殿書院における点茶所の好事例として貴重な資料となったことでしょう。
 座敷は主室八畳、次の間八畳。主室は、一間幅の床に付書院、同じく一間幅の棚には天袋と違棚が見え、次の間との間の竹の節欄間や障壁画を含め、雅な趣を醸し出した御殿書院であります。正月には当主はこの座敷に長板飾りをして年賀の客を迎えます。
 また、この座敷に対して「行」というべき茶室として、先代正良氏(故人)が主屋の西の納戸を直した三畳向切の茶室があり、いまも「奥三畳」と呼んで家人に親しまれています。1間幅の真中に北山杉絞丸太を立て、左右に棚と床を置き、天井も平天井と掛け込み天井に分けて、障子の桟を斜めに石畳風に組むなど、工夫されています。
 さらに、当代は昭和60年(1985)に庭に自分で2畳の茶室を普請してしまいました。庵号は自称「喜松庵」。席額も自作ながら、字は日本画家上村松篁先生の筆、彫刻家久保田信行先生の指導により自ら彫ったものです。床框には東大寺の守屋長老より拝受した古材を、床柱には屋敷内の元漬物小屋を解体した時の柱を使うなど、自在の茶の境地を楽しまれています。
 先祖から語り継がれる長い歴史を敬愛しながら、茶を舞台に新たな創意に年の初めを迎える、日本の清らかな風景をそこに見る思いがいたしました。
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