新・市中の山居   「茶道雑誌」 2000年09月号
鶴屋吉信 「游心」
(池坊短期大学助教授) 岩崎 正弥

 今回ご紹介いたしますのは創業200年の伝統を誇る京菓子の老舗、鶴屋吉信本店の2階にある、茶室「游心」です。
 鶴屋吉信は、享和三3年(1803)に初代鶴屋伊兵衛が丹後より上京し、堀川今出川上ル北船橋町に菓子屋を営むところから始まります。開業時より号する「吉信」の名は「吉兆」と「信用」を標榜してのこと。以来、禁裏・宮家・茶道家元・有名寺社などの御用を勤め、50年後の嘉永7年(1854)には京都所司代認可の「上菓子屋仲間」に連なるまでになります。なお、この「上菓子屋仲間」は明治に「菓匠会」となり、現在所属27店舗にて継承されているとのことです。
 さて、帝都が東京に移った明治・大正・昭和においても、3代目鶴屋伊兵衛が工夫した「京名物・柚餅(ゆうもち)」や「福ハ内」などが明治天皇皇后や大正天皇皇后をはじめとする御皇族お歴々のご愛顧を得て、両都においてその名を高らしめました。
 戦後は、昭和25年(1950)に株式会社に改組。特に5代目の稲田栄三氏が昭和33年(1958)に社長に就任後は、東京をはじめ全国へ本格的な店舗展開および工場拡張を果たし、現在の基盤を築き上げました。その5代目稲田栄三氏が事業の総仕上げとして発意されたのが、この新本社屋ならびに本店の建設でありました。
 計画にあたっては、伝統的な京町家の姿を表現して、その後ろに8階建てのビルディングをセットバックして配置。この古都への配慮が、後に「京都市都市景観賞」を受賞することとなります。また、その表家造り部分の数寄屋普請は、天下の名棟梁と謳われた故中村外二の腕によるもので、棟梁晩年の名作と記憶されることとなりました。
 建物は平成4年(1992)12月に竣工。ところがその半年2ヶ月前に5代目稲田栄三氏は惜しくも73歳で病没されたとのこと。その後を夫人の和子氏が6代目社長を引き継ぎ、今年、娘婿である稲田慎一郎氏に7代目が引き継がれたところであります。
 さて、今出川通堀川西にある平成の新本店を見あげると、富岡鉄斎の揮毫による大看板「京名物 柚餅」が威風堂々と瓦葺きの庇の上に虫籠窓を背景に揚がっています。まさに京都の大老舗の風格ながら、柱・梁の白木の造作、大ガラス戸に床飾り構えの出窓など、細部は清明な現代の数寄屋であります。
 中に入ると、赤い辰砂釉の大きな陶板が敷きつめられた広々とした明るい店内が待ちうけています。カウンターの展示台や腰掛には栗の厚い一枚板がどっしりと使われ、露地庭の一部が店の中にも溢れている風情、奥へ進むと上村淳之画伯の杉戸絵「丹頂鶴」が現れるなど、いろいろ見所の多い所です。
 エレベーターで2階に上がると、いよいよお休み処頃です。と、踏み込んだお休み処の奥に、思いがけず外光に輝いて風にそよぐ茶庭の緑が現れるのであります。歩を進めながらよく見ると、この茶庭を囲んでお休み処は向こう側まで続いているのがわかり、やがて、その木の間越しに茶室のしつらえがあるのに気づかされます。これが茶室「游心」です。
 広さは点前畳を含めてわずか5畳ながら、1間幅の床の間が伸びやかです。店内に向う2面の壁は建具も隅柱も略され、透き網代の天井からは照明の光が降り注がれ、この茶室が常にお点前の舞台として、お休み処全体を立礼席として、見立てられているわけです。
 扁額「游心」の揮毫は故入江相政侍従長によるものとのこと。床柱には北山天然絞丸太、床框には皮付赤松丸太が取り合わせられて、京都のはんなりした好みを表わしています。
 茶室と茶庭の風情を楽しみながら、あらためて一時の静寂を、美味しいお菓子とお茶とともに味わっていますと、まことにビルの2階にいることを忘れてしまいそうです。茶庭の佐治石の巌はどっしりと風格があり、蹲踞の石組は地面より深く据えられています。間仕切りのガラスサッシュは脇の壁にすべて引き込むことができるとのこと、季節の良い時の開放感は如何ばかりでありましょうか。
 ここでは、毎月第2土曜日に「月例鶴游会」という茶会が開かれています。これは季節に合わせたお道具や美術品などを展示しながら、それに因んだ創作和菓子8点ほどの中から、ご希望の菓子をお抹茶とともに召し上がっていただくという趣向だそうです。
 また、創作和菓子といえば、実演カウンター「菓遊茶屋」では、季節の生菓子を目の前で作ってさしあげる試みで、大変人気とのこと。こういった日々の創意工夫の中から、出会いの中から、また新たな時代の作品が生み出されているに違いありません。
 鶴屋吉信の社是は「ヨキモノを創る」とのこと。誠にその心にふさわしい、よきものを堪能する「よき世界」が作り上げられているものと、得心いたしました。
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