とっておきの時間と空間と御話で  日本の伝統文化の本物を学ぶ  探訪見学講話型の特別授業
伝統未来塾  第1回公開シンポジウム「茶陶の昨日・今日・明日」  議事録・その1

公開シンポジウム 2006年 6月10日(土)(13:00開演)13:30〜17:00 
テーマ:「茶陶の昨日・今日・明日」
場 所:京都市国際交流会館・特別会議室 (左京区左京区粟田口鳥井町)
 日本のやきものは茶の湯の影響を強く受けながら発展し、現代においても茶陶と一般に称される茶の湯に用いるやきものは、やきものの中でも大きな位置を占めている。しかしバブルの崩壊や茶の湯人口の減少により、やきものの製作現場では対応を再検討せざるをえなくなっているのが実情である。 このような状況をふまえ、あらためて茶陶とは何なのか、これまで茶の湯と茶陶製作者はどのような関わりを築いてきたのか、そして今後は何を目指すべきかについて、韓国や日本各地で茶陶に関わっている人たちとともに議論し、これからの茶陶の進むべき道を探ってみたい。(参加費:1,000円)
      申 翰 均(しん はんぎゅん)(韓国 申翰均窯)
      山岡 徹山(やまおかてつさん)(上野  香春窯)
      杉本 寿樹(すぎもと としき)(信楽 陶夢工房)
      安田 浩人(やすだ  ひろと)(粟田口 鍵屋 )
      鈴木  徹(すずき   てつ)(美濃     )
      谷   晃(たに   あきら)(コーディネーター、野村美術館 学芸部長)


伝統未来塾 第1回公開シンポジウム「茶陶の昨日・今日・明日」議事録

内 容:

13:30 開演挨拶 主催者
13:35 基調講演 「茶陶の昨日・今日・明日」コーディネーター 谷 晃 先生
13:05 シンポジウム    パネラーのご紹介
14:55 (休憩)
15:05  ディスカッション
16:50 閉会挨拶 主催者
16:55 閉会
(氏名敬称略)


【開演挨拶】主催者 岩崎(伝統未来塾)

 ようこそ、伝統未来塾 第1回シンポジウム「茶陶の昨日・今日・明日」にご来場いただきまして、誠にありがとうございます。私は、主催者の岩崎正弥と申します。どうぞ宜しくお願いいたします。

 今日は、皆様には本当にお忙しい中、京都の東山に面した蹴上の地に、足をお運びいただきまして、誠にありがとうございます。このような場で、「茶陶」をテーマにシンポジウムを開催させていただくことを大変ありがたく思います。

 伝統未来塾の取り組みは、ちょうど2年前の春から、「とっておきの時間と空間をお話で、日本の伝統文化の本物を学ぶ、探訪見学型講話特別授業」という趣向で始めさせていただきました。その志は、「伝統文化の輝く、日本の美しい未来を創造したい」という想いでありました。お陰様により、京都を中心とした各界の第一人者の皆様に、講師としてご協力をいただきまして、やきもの・織物・漆・様々な老舗、素敵な美術館、時には京菓子・京料理の料亭や旅館など、普段はなかなか伺うことの出来ないお仕事場に伺わせていただいて、特別授業を組ませていただきました。これまでのべ約120回以上の開催をさせていただきました。

 また、昨年秋からは中根史郎先生に庭園探訪の特別授業を、それから今春からは中村昌生先生に伝統建築探訪の特別講義も賜っております。

   さて今回は、谷 晃(たに あきら)野村美術館学芸部長にコーディネーターを務めていただきまして、第1回のシンポジウムを開催させていただきたいと存じます。

 お手元のプログラムの内容に従いまして、まず、最初に谷先生から基調講演といたしまして「茶陶の昨日・今日・明日」と題したご講義を30分ほど、短い時間で恐縮ですが、承りたいと思います。その後、先生の進行によりまして、シンポジウムの講師の皆様のご紹介、そしてディスカッションへと進めていただきたいと思います。

 それでは、早速、「茶陶の昨日・今日・明日」と題しての基調講演を、谷 先生、何卒宜しくお願い致します。

(拍手)


【基調講演】 谷 晃 先生

 ただ今、ご紹介いただきました谷でございます。今日は、ただ今、司会者の方からご紹介ありましたように、「茶陶の昨日・今日・明日」というテーマでシンポジウムを行っていきたいと考えておりますが、それに先立ちまして、僭越ながら、基調講演といいますか、「茶陶」というものがどういったものであるのか、ということのあらましをお話いたしまして、そしてその後、今日ご出席の方々とディスカッションを続けていきたいと考えております。

 時間がないので、早速本題に入りますが、本日のテーマであります「茶陶」ということ、これは一体何でしょうか。よく巷でも使われている言葉ではありますが、実はこれはそれほど古い言葉ではありませんで、比較的新しい、現代になってからの言葉でありますが、簡単に申せば「茶の湯に用いられるやきもの」ということになる訳でございます。しかしながら、何でも茶の湯で使えば、それが即「茶陶」と言うことができるかと言えば、必ずしもそれは言えないのでありまして、たとえば茶碗というものは、これをどなたかが作られる。それで、これは茶を飲むために使ったのだから、「茶陶」と言えるか、というとなかなかそうはいかない訳であります。それは、どういったことなのかと申しますと、まず「茶陶」というものは、これは「茶陶」に限らず、茶の道具、俗に「茶道具」と言っておりますが、これは、必ず用途を持つ。用途を持たないものはない。あるいは、別の用途に用いられるということは、原則として有り得ない訳であります。花入として作られたもの、あるいは、使われているものを茶碗として用いることはない。あるいは、建水として作られたもの、用いるものを茶碗として使うこと、これもありません。

 ですから、必ず用途があり、そして用途があるということは、それにふさわしいものである、なければならないということになる訳であります。

 それを、昔の人は、「なり・ころ・ようす」と言う言葉で表現しております。「なり」というのは形、それから「ころ」は比率の比、様子は「いい様子だ」というような、今、普通に使う様子、様という字に子供の子と書く訳ですが。

 この形(なり)というのはどういうことかといいますと、簡単に言えば形(かたち)になる訳ですね。それに相応しい形、花入には花入に相応しい形があるし、建水には建水に相応しい形がある。つまりそれは、用途に適った形になっている訳です。ですから、たとえば、非常に平たいお皿のようなものを茶碗に用いること、これは、はっきり申し上げまして、茶は点て難いし、飲み難いから、茶碗としての形(かたち)、形(なり)としては良くないことになる訳です。

 それから、比(ころ)というのは、比率の比なんですが、古くから名品として伝わっている茶道具というものの寸法とか、あるいは重さというものを計ってみますと、ある一定の範囲内にほとんど収まってしまう。若干の例外はありますけれど、ほとんどが収まる。たとえば、茶碗でいえば、口径が20cmや30cmもあるものはない訳で、高さでも10cmまでという、そしてたとえば口径と底径、高台の径、それらの比率というのも、ある一定の範囲の中に収まる。こういったことを比(ころ)と、昔の人は呼んでいました。

 それから、次の様子というものは、これは、茶の湯に相応しい雰囲気を持っているということですね。たとえば、最近の若い人達が好むものには、非常に色彩的に華やかな、我々から申せば騒々しいようなものもある訳ですが、そういったものは茶の道具としてはどうしても向かない訳です。たとえば茶室の畳の上に置かれたとしても、どうしても違和感が出てしまう、ということがありまして、そうした茶の湯の持つ雰囲気に合った佇まい、これが様子である、という訳です。

 そしてさらに言えば、茶の湯の美意識に適ったものであることが望ましい訳です。ところが、茶の湯の美意識といいますと、これは実は大変に難しいものでありまして、また非常に複雑な様相を示しております。皆さんのお手元に配られた資料に、最初のページの右側、開いていただいて右側に8枚の写真、これは茶碗ばかりを今回選んでおりますが、実はこれはいくつかの美意識、1つの美意識、たとえばよく茶の湯は侘びである、寂びであるという言葉が、あたかも枕詞のようにして用いられる訳であります。しかしそれは左上の茶碗は侘びという美意識、あるいは侘び数奇という美意識により選ばれたものとは必ずしも言い難い。あるいは、右下にあります、大きな魚が描かれた茶碗、これも侘びというものとは少し違うのではないかという気がいたします。

 ただ、今日は茶の湯の美意識について詳しくお話する時間はございませんが、ともかく、茶の湯の美の根本にあるものは「侘び数奇」という美意識に基づいている、あるいは「侘び数奇」という理念から導き出された美意識によって多くの茶道具が選ばれているということを、ご記憶に留めておいていただきたいと思っております。

 ただし茶道具にはそれ以外の美意識により選ばれたものも含まれておりまして、たとえば、今、私が勤めております美術館には侘数寄以外の美意識によって選ばれたものも一緒に、侘び数奇の美意識で選ばれたものと同時に展示しておりますので、なかには戸惑いを覚えられる方もあるかもしれませんが、ともかく、茶道具というものは、茶の湯が持つ美意識によって選ばれたものでなければならない。

 そして、さらにもう1つ大事なことは、他の道具と協調できる、共存できる、ということです。いわば、ハーモニーを奏でること。それ1つだけが目立ちたがり屋では困る訳なんですね。あるいは、遠慮していでも困る。それなりに、自己主張もしながら、そして同時に他の道具と手を携えて、1つの茶会の雰囲気を作り出すものでないといけない訳です。ですから、現代作家の方がある茶碗を作られて、それが美的、あるいは芸術的に素晴らしいものであっても、それを茶室の中で他の道具と並べて、他の道具と上手くマッチしていかないことには、これもやはり茶道具と呼ぶことは出来ないのだろう、というように私は考えております。

 ですから、茶道具というか、あるいは「茶陶」というものは、このように単に茶の湯に用いられているというだけではなくて、独自の用途が厳然としてある。明確な用途がある。そして茶の湯の美意識に適ったものである。さらに他の道具と調和をすることができる。こういった条件を満足させ得るもの、それが今、ここでテーマにしている「茶陶」であるというように、一応説明をしておきます。

 ただこれは後で行われます討議におきましては、若干異論が出てくるかもしれません。それはまた、いろんな形で意見が出て、それを戦わせることによって、お互いの考え方を深めていきたいと思っておりますし、今日お越しの中には、全然「茶陶」はしていない、私はやきものは作っているけれど、「茶陶」というものはいっさい作っていないという方もあります。ですから、そういった立場の方からは別のご意見が出てくるかもしれませんが、それはまた楽しみに取っておくことにいたしましょう。

 次に「茶陶」の種類というものがいくつか書いております。これにつきましては、ここを少し読んでおいていただくことにしますが、ただちょっとだけ説明をしておきますのは、「やきものの性質による」というところで4つの分類をしておりますが、この中の2つ目のb器という言葉はあまりお耳に慣れない、余り聞いたことのない言葉かもしれませんが、単純に言いますと、磁器と陶器の間に存在するもの、中間的に位置するものというようにご理解しておいていただければと思います。後でその点も問題になるかもしれません。

 それから、次に、3の「茶陶」の歴史ですが、これも当初は転用品と書いてあります。これはどういうことかと言いますと、一番最初に茶の湯に使われたもの、最初といいますか、初期の頃。茶の湯が一応成立したと考えられておりますのは、16世紀の初頭ですが、その頃の茶道具、それは幸いにしてその時代の茶会記、あるいは公家やお坊さんの日記によって知ることが出来るのですが、そういったもののほとんどが輸入品である。しかも、日本の茶の湯のために作られたものではなかったのですね。他の用途のために作られたものが日本に持ち込まれて、日本の茶の湯というものの中で、それぞれ花入や茶碗、あるいは茶入などに用いられた。これを転用と称している訳です。

 国産品で茶道具専用として作られたのは樂茶碗が一番最初だという風に書いてありますが、これが従来の説でございます。国産のやきものでもやはり最初は転用品であったのだろうと考えられます。やきものでは古窯系、つまり転用が起こる前から生産が行われていた、たとえば備前であるとか信楽であるとかそういった窯ですね。それから朝鮮系の窯、これは17世紀初頭から始まった萩ですとか、唐津ですとか、高取や薩摩、そいった窯になります。国焼系というのはそれから少し遅れるものがほとんどですが、古くは京都でもやきものが生産されておりますが、陶器は、あまり古い時代には焼かれておりません。ただし瀬戸だけは特殊で、中国のものを真似ながら、大体14世紀ぐらいから生産を始めています。そういったいろいろなものがある、ということですね。

 それから瀬戸における茶入生産、これは茶入というものはもともと唐物であったのが、瀬戸でそれを写して大量に作られる時期があったんですけれども、あるいは倭館窯という、これもあまりお聞きにならない言葉かもしれませんが、これは対馬藩が直接外交を幕府から委託されておりまして、その出張所として現在の釜山市内のほぼ中央に10万坪に及ぶ広い租借地を持って、そこの中に窯を築いて、17世紀後半に茶碗をはじめとするやきものを生産していた訳です。そこで生産された量はかなりにのぼります。ですから、現在高麗茶碗として伝世しているものは、少なく見積って半分以上はこの倭館窯のものであろうと、私は考えております。

 それから、御庭焼というもの。これもまた定義が難しいのですが、お殿様が自分のお城・別邸の中に窯を築いて、費用は全部お殿様が出して、具体的には藩ですが、藩で出して、そして各地、京都をはじめとする各地から陶工を招いてそこで作らせるやきものを御庭焼と呼んでいた。御庭焼の多くは「茶陶」を生産しています。

 そして、「茶陶」の現況というようなことを書いておりますが、その前に少し今後のディスカッションへの手がかりということで、「茶陶」とは何かということを考える場合、こういったことを考える必要があるのではないかということを、いくつか列挙してあります。

 1つは「型」と「意匠」。「型」というのは利休型とか宗易型とか、宗旦型と言われるもの。それから「意匠」というものは現代の言葉で言えばデザイン。「型」というのは、ある決まった「型」がある訳ですから、西洋の創造性、creationという考えからからすれば創造性はないということになる。しかし、日本の千家十職などの方は、利休型や決まった「型」を元に同じものを作るのですが、いや、そこの中にこそ創造性があるのだということを言われる。ですから、「茶陶」というものは、必ずしも、新奇なもの、まったく新しいもの、creativeなものを作るだけがデザインではないんだ、ということがあるのではなかろうか、ということで、「型」と「意匠」。

 それから「似せ」と「写し」。「似せ」というのは、似せる。ものを似せる。こういうものに似せて作る。似せるということと、写していくということは基本的に違うのではないか。似せるということは、根本的にはコピーすること。ですから、それが変な意図を持つと偽物、贋物になっていく。それから、「写し」というのは、これは習作ということで、日本でも中国でも芸術家の多くがにやってきた、絵画でもやってきたことです。「似せ」というものは対象を出来るだけ忠実に再現することに集中するに対して、「写し」はいわば「換骨奪胎(かんこつだったい)」といいますか、最終的には写す対象を打破する、そこから抜け出るものだというようなところがある。

 同じようなことで、「臨模」と「寸法」ということを申しておきます。臨模というのは、目の前において写すことなんですが、「寸法」というのは、それを、その心を、姿を自分の中に入れて、自分の技術でそれを再現する。「寸法」というのは、茶室の方でよく使う言葉でして、それは単にものが長いとか、短い、あるいは広い、狭いということを言うのではなくて、その中にその茶室を建てようとするいわば施主、施主の茶の湯に対する思想というものが込められていた言葉として用いる訳です。ですから、やきものにおいてもそういった「寸法」、先ほどの「形・比・様子(なり・ころ・ようす)」と関連することがありますが、「寸法」ということも考える必要があるのではないか。

 そういったこととは別にしまして、実際に、じゃあ、これから「茶陶」というものを作るという時に考えていかねばならない問題というものがいくつかあって、まず「芸術性」と「汎用性」というもの。「茶陶」というのは、芸術性を追及しては「茶陶」にはなり難いという宿命を負っているものだと思います。ですから、たとえば、かつて「走泥社」というグループがありまして、そこに属していた八木一夫という著名な作家の代表的な作品に「ザムザ氏の散歩」というものがあります。もちろんあれは「茶陶」として作ったものではありませんけれど、彼はフランツ・カフカという人の「変身」という小説からイメージを得て作ったもので、それは非常によくそのイメージが再現されているという風に私は評価しています。ああいったもの、あるいはたとえば同じ「走泥社」で三輪龍作さんという方がおられますが、その人が作られるものを茶室の中に持ってくると、これは先ほど言う協調性というもの、他の道具との調和というものはあまり望めないと思う訳です。しかしながら、芸術作品としては高く評価される訳です。

 それに対して汎用性というものを意識するということは、これは実際に使えるということでもあります。たとえば、日本の有名な作家に野々村仁清という人がいて、その作品の1つに野村美術館が持っている背の高い茶入があり、これは実は下の半分以上は土ばっかり。空間があるのは上の3分の1ぐらい。これは実は技術的に非常に難しい訳です、つまり土がぎっしり詰まっているところと、空間が空いているところは窯に入れると収縮率が違ってきますから、綺麗なラインにならない。それを計算に入れた上で、仁清の作品は綺麗な1つのライン。緩やかな曲線を作り上げる技術を持っていた。あるいは、また茶入においては脛高(はぎだか)、つまり釉薬が高止まりしているものは下品だといって嫌っていました。しかし、その仁清の茶入は非常に高いところで釉薬が止まっているにもかかわらず、非常に優れた、優美な作品に仕上がっている。ですから、芸術性を追及するのではなくて、汎用性を追及しながら、実用性を追及しながらも、単に数を作ればいいだろう、割れたら別の新しいものを使ったらいいだろう、というようないわば消耗品とか大量生産品を作るのではなく、一つ一つが優れた個性を持つものを作るということを考える必要がある。

 それからもう1つは、茶器と常器ということです。これは陶磁器の研究者がよく使っている言葉でありますが、茶器というのは文字通り茶の湯に使うもの、そして常器というのは一般の生活の中で使うもの。特に古染付で、常器古染付、茶器古染付という区別を陶磁史の方は使います。、常器は日常生活に使っていく器ということですね。これからの「茶陶」というものを考えていく場合には、「茶陶」だけではやはりやっていけないのではないか。「茶陶」としての意識だけでは難しいのではないか。やはり、常器、つまり日常の生活の中で使えるものでもあるけれど、また同時に茶器、茶道具として使えるもの。先ほど言いました「茶陶」としての条件に適いつつ、しかも日常的な生活の中で使えるもの。そういったものを、目指していくのが1つの方法ではなかろうか、というように考えております。

 さらにもう1つは、「用」と「美」ということです。これはかつて柳宗悦という人が言い出した事で、柳宗悦は特に朝鮮半島の民衆によって作られたものの中に「用」と「美」を見いだせるという説を展開して、日本で民芸運動というものが盛んに行われた。最近は民芸運動は下火になっておりますが、そういった「用」と「美」というのが兼ね合わなければいけない。「用」を足せばいいのだという訳ではない。

 しかし美ということ、とくに茶の湯の美というのは難しいと言いましたけれど、これからの「茶陶」としては21世紀に向けて、今までにはなかった「美」というものを追求してもいいのではないかという気がいたしますし、現実に茶の湯はそういうことを繰り返してきております。たとえば、16世紀に取り入れたもの、17世紀に取り入れたもの、18世紀に取り入れたもの、19世紀に取り入れたもの、それらは少しずつ違う。社会背景、具体的な茶の湯の状況などにより少しずつ違っている。ですから、21世紀の「茶陶」を目指す人達は、過去だけを振り返るのではなく、「茶陶」はこうであったというのを振り返るのだけではなくて、これからの「茶陶」はどういうものであるべきか、これからの「茶陶」の「美」というのはいかなるものであるのかということを念頭に置く必要があるのではないかという気がいたします。

 しかしながら、現実にはそういった、今私がいいましたことを実際の作品の中に具現していく、つまり具体的に表現するということは、きわめて難しいものがあると思います。技術の問題もありますし、あるいは感性の問題もある訳ですが、そういった困難を乗り越えて、あるいは追求することによって、克服することによって生産すれば、必ずや「茶陶」というものも、決して暗い将来ではないんだという気がいたします。現在はかつてに比べると「茶陶」というものが非常に売れなくなっている時代です。たとえばかつては40万円、50万円というものでも飛ぶように売れた時期があったのですが、今は、そういったものがほとんど売れなくなってきている。茶碗にしましても、10万円を切るようなものであればボツボツ売れるのだけれど、それ以上のものになるとなかなか売れないというような状況がある。あきらかに20世紀とは時代が異なってきている訳ですから、やはりそういった意味でも、これからの時代に合った、そういった状況を考えつつ、多様な購入者を想定するとか、いろいろなことを合わせて考えながら、先ほど申しましたような課題というべきものに取り組んでいく必要があるのではなかろうか、と私は考えているところであります。

 そしてそういう状況の中から、100人の人が取り組めば100人がすべてという訳ではなくて、1,000人、10,000人という人のなかから、1人あるいは2人かもしれませんが、後世に、何百年かの後に21世紀の作品として残っていく人が出てくるのであろうと考えております。

 大変、大雑把な話ではありましたけれど、とりあえず最初の手がかりとしていただくべく、お話を致しました。これから、ディスカッションに移っていきたいと思います。

(拍手)


岩崎:

 ありがとうござました。では、ただ今の基調講演を受けまして、パネラーの皆様、どうぞ壇上へお移りくださいませ。韓国から申翰均様、それから通訳にチェ・ヨンシン様、それから九州から山岡徹山様、甲賀から杉本寿樹様、それから京都から安田浩人様、美濃から鈴木徹様。

谷:
 それでは、改めまして私から、ご紹介いたします。私のすぐ隣に座っておられるのが、韓国釜山から今日のためにわざわざおいでいただきました申翰均さん。

  申翰均です。申は「申す」の申ですよ。

 通訳としてチェ・ヨンシンさん。この発音は日本人には難しくて、いつもそれとは違うと言われるんですが、チェさんです。高校の先生をしておられまして、通訳として今日同行されました。通訳ということになっておりますが、実は申さん、日本語がお上手ですから、あえてということもありますが、いろいろなことでご相談されながら語っていただきたいと思います。

 その向こう山岡徹山さん。九州の上野香春焼の3代目でいらっしゃいます。また、ご自分のことは、詳しく説明していただきますが、大変研究熱心な方です。

 それからそのお隣、杉本寿樹さん。信楽の方でユニークなやきものを作っておられます。奥様も陶工でいらっしゃいます。

 そのお隣、京都の粟田、ここらごく近い、這ってでも行ける、そういう所にご実家がございます、古くから続く粟田焼の鍵屋という家の安田さんでいらっしゃいます。

 さらにそのお隣、この方は安田さんよりはお若いんだそうですが、お頭の方はちょっと老けて見えますが、美濃の多治見から来ていただいた鈴木徹さん。ご存じの方もあるかもしれませんが、お父上はご高名な陶芸家でいらっしゃいます。そういう意味では、申先生のお父さんも、韓国でその名前を言えば、誰知らぬ人はないほどの高名な陶芸家でいらっしゃいます。それでは、皆さんお一人ずつ、それぞれ自分の思い、また「茶陶」との関わりなどについて喋っていただきますが、時間が限られておりますので、お一人10分ということでお願いしたいと思います。

 ちょっと通訳のチェさんが体調がすぐれないということで、さきほど退席されて今は別室で休んでおられます。そんなことで、申さん通訳なくていいですね? それでは申さんからお願いいたします。

  私は昔はもともとは正しい日本語を勉強したんですけれども、酒が好きなので飲み屋で勉強しましたからいい日本語は出来ないです。今日の私の話、皆さん、私の言っていること分りますか? これは何でしょうか? これは井戸茶碗でしょう。井戸茶碗は磁器ですか? 土ものでしょうか?

  日本の言葉で言えば、陶器か、磁器か。(会場から「陶器?」の声)

  陶器? 本当はこれは白磁、磁器です。なぜ? 黄色い色だから時期とは違う? 酸化鉄が多いから黄色に見えるけれど、これは磁器です。昔、韓国では何に使ったのでしょうか?(会場から「ご飯茶碗?」の声) ご飯茶碗だと思いますか? そうですか?

 おかしいことがあります。韓国人の食事の習慣は日本人とはちょっと違います。たとえばの話をします。飯碗を、日本の方は、こうやって(箸で)食べるでしょう? 韓国ではこうやって食べたら首です。韓国ではスプーンで食べます。普通の茶碗と井戸茶碗の一番の違いは何かな? 井戸茶碗は高台が狭いし、高いでしょう。食事食べる時、高台が狭くて高いと、ご飯をスプーンで食べる時、倒れるでしょ。ですから韓国人は高台が狭くて高いものは絶対に食器として使わないです。

 ですけれども、この井戸茶碗、皆さん井戸茶碗は韓国の昔の飯碗という。日本の本にもいっぱい書いてある。そのこと一番最初に日本で喋った人、誰か分りますか? それは今、谷先生が話した柳宗悦さんです。あの人が韓国のやきものを知日本に知らせてくれて、ありがとうありがとうですけれども、あの人行った時、日本の方ですから、手で触った時、日本人として考えたんです。これは韓国の食器だ! その人の話から、今、日本の皆さん、これ韓国の昔の食器だと考えます。全然違います。

 韓国は、古代青磁とか白磁を作りました、そうでしょう? 韓国の博物館行っても、大体古代は青磁と白磁だけです。これは三島もあります。ですけれども、白い色の井戸茶碗は韓国の博物館どちらに行ってもないです。なぜなのかな? 先生、時間でしょう? ちょっと早くします。

  いいですよ、どうぞ。

  これは韓国の祭器です。祭器、言葉分りますか? たとえばの話です、法事ですけれど、韓国人、先祖の法事の時は、飯を盛ります。飯とかキムチとか準備します。これ後でミックスして食べるのが韓国の習慣です。それがビビンバです。ビビンバとは、法事の食べ物です。なぜ混ぜるか。家族は皆一緒です。

 韓国は儒教の国です。孔子の作った儒教。中国の孔子。村で法事をやる場所があったんです。韓国は孔子を大事にしていたんです、神様みたいに。ですから、村で1年に2・3回ぐらいは法事をしていたんです。これはですから、孔子のための祭器です。韓国の祭器はどうかな? こんなのでした。これ日本でも有名なお茶碗でしょう? たとえば、これは中国のです。韓国のです。しかし初めはこれ真鍮でした。今でも韓国は真鍮とか鉄の食器で食べる習慣があるんです。

 井戸茶碗はなぜ祭器か、これ話しています。井戸茶碗は、前に話したと思うんですけれど、高台が狭いし高い。これNo.1の話です。No.2は、黄色い色のやきものはないです。井戸茶碗だけです。真鍮見たでしょう? 真鍮。韓国人真鍮の色大好きでした。昔、真鍮はものすごく高かったんです、500年前は。韓国ではできなかったし、中国からも輸入するし、日本からも輸入する。真鍮好きだから、真鍮の色が出来るように窯でやきもの作ったんです。やきもの作っている先生はよく分ると思うけれども、白磁を酸化させる時は、黄色い色が出来ます。ですから、韓国で黄色い色は井戸茶碗だけです。これは目的は真鍮に近くするためです。これ轆轤目があるでしょう? これはなんのためか。ここに中国の青銅器があるでしょう? それをシンプルにしたんです。轆轤目はだいたい韓国人の青銅器へのあこがれです、それが轆轤目。

 一番最後は、「かいらぎ」があるでしょう? これは完全に出来たのではなくって、「かいらぎ」のために考えたのです。ですから、日本にある大井戸茶碗「喜左衛門井戸」とか「宗及井戸」とか、これは韓国の祭器だったという話です。


  ありがとうございました。時間がないと非常に気にされて、駆け足のお話で、分り難いところもあったかもしれませんが、いずれ後で補足していただきますので、取りあえず、今、これで終っていただきまして。では、山岡さん、お願いいたします。


山岡   福岡からやって参りました山岡徹といいます。お祖父さんの代に、上野香春焼という窯を興して、私で3代目になりますけれども、今日のテーマの「茶陶の昨日・今日・明日」に合致するか分りませんけれども、ちょっと上野について話したいのですけれども、韓国から上野、日本に話を持ってこようと思うんですけど、どうしても無理があるんです。なぜかと言いますと、上野焼は、ジュスイジ、韓国のジュスイジというところから、キム・チョンイルという日本名では上野喜蔵高国(あがのきぞうたかくに)と言いますけれども、こちらが細川侯の命といいますか、招きですね、招待によって興したのが上野焼ですから、私のしている仕事は、韓国の申先生のお話とは切っては切れないところがありまして。

 ちょうどですね、細川忠興侯が関ヶ原の合戦、1600年頃でしたでしょうか、合戦が終りまして、家康侯が勝ったんですけれども、その年の11月にはもう中津城に入ったんですね。そしてですね、その小倉城に入りたかったんですけれども、ちょっと小倉城の修復の必要がありましたので、2年ほど中津城にいたんです。その間に先程、谷先生がおっしゃいましたように、御庭窯、遊び窯といいましたけどね、菜園場というのを小倉に作ったんです。そして1602年に、小倉城が良くなったので入城しまして、そこで上野喜蔵高国に「茶陶」を、千利休から直接に教授された忠興侯でしたから、上野焼というのは完璧に最初から「茶陶」を目指して作った窯なのですね。それで、上野喜蔵高国が、いろいろ領内を見て回って、水の良い所と土の良い所を探しましたら、上野峡という山の中でカワノフチという窯を開いたのが1620年です。そして、それで「茶陶」を中心に焼きだしまして、何十年か、30年間ぐらいは完璧に「茶陶」をやったんですけれども、途中で8代で、上野焼きが一旦途絶えてですね、そしてトトキのシラカワゴケンさんという方が、11代ぐらいからまた再興して、昭和からまた興ったんです。その頃にですね、興った頃に、上野がちょっと、こういうことを言ったら誰かに叩かれるかもしれませんけど、難しいんですけれども、緑青の話をしていいでしょうか?


  ちょっと時間が長くなりますね。

山岡   そうですね。時間があまりないので、深く話せませんけれども、上野は完璧な「茶陶」で始まって、そして今、ちょっと緑青を使い始めてから、少し「茶陶」から逃げた、離れてきた。書店に行ってもあまり上野の本もないし、私より若い申先生からいろいろご教授を受けながら、それでご縁が出来たので、こういう場を設けていただきまして、参加させていただきまして本当にありがたく思っています。「茶陶」を一生懸命ですね、昨日・今日・明日に向かって「茶陶」を精進、邁進、努力して作って、侘び寂びの精神を、日本人、今の若い人が少しでも持てるようになってくると、変な事件というのが無くなり、日本文化というものに関心が向いていくのではなからろうか。それがないから、今はおかしいのではないか。そういうことを感じながら、ちょっと何を話しているのか分りませんね。10分ぐらい経ったのでしょうか?

  はい、ありがとうございます。

山岡   どうも、また後で・・。

  不完全燃焼といいますか。たくさんあるようですから、それはまた後でうけたまわるようにいたしまして、次は杉本さんお願いします。

杉本   杉本といいます。今現在は滋賀県の甲賀町というところでやきものを焼いております。焼いているのは、写真に載っているとおり、ごく普通に家で使っていただけるような食器であるとか土鍋を主に焼いております。「茶陶」との関わりというのは、そんなに深くはありません。ほとんど普段の仕事は、食器を主にやっておりますので、この場においてはちょっと斜めから「茶陶」のことを覗いてみたいというか、ちょっと斜めから意見を述べさせていただきたい。こんなだけ言ってしまえば、自己紹介終ってしまうんですけれど、う〜ん。

  何か日頃思っておられることというか。

杉本   別になにもないですよ。・・もうディスカッションに入るんですか?(笑)

  いや、まだまだですよ。

杉本   そうですね、あの、日頃思っていることは、いい器を使っていただきたいなということは、いつも心のどこかにある。似せたるものを使ってもらうよりも、ちゃんと作ったものを使っていただきたいなということは、いつも思っていることかなと。ま、次の方に回します。

  時間節約にご協力いただきまして、ありがとうございました。それでは、鈴木さん。失礼、安田さん。ちょっと隠れて見えなかった。

安田   陰の薄い安田でございます(笑)。この中では一番近くから参りまして、蹴上の駅、地下鉄の蹴上駅がございますが、その上に実家がございまして、そちらでやきものをやっております。

 うちの家は、代々粟田焼という窯、やきものの産地で窯元でした。京都でやきものと申しますと大体、清水焼が有名なんですけれども、その昔は粟田焼というのも結構頑張ってたんです。ところが、昭和の28年ぐらいにうちの祖父の窯が無くなってしまいまして、その後うちの父はやきものを輸出するという仕事をずっとしてまいりました。

 粟田焼というのは、昔は青蓮院さんというお寺の御用窯としての時代があった訳ですけれども、明治以降はそういう役割はなくなりましたので、その需要を海外に求めました。海外にちょうど明治になりました頃に九州の薩摩焼というものが結構もてはやされまして、その写しというか、コピーのようなものを日本各地で、たとえば京都であるとか、神戸であるとか、いろんなところで薩摩焼を作った訳ですけれども、明治以降の粟田焼は京薩摩の窯元として栄えました。そういう流れですので、うちの父もやきものを輸出するという仕事をしていたのですけれども、窯自体はもう無くなってしまいました。

 その父に私が高校の時に「お前ちょっとアメリカに留学してこい」と言われて、父の取引先の家に1年間お世話になりました。そういう貿易関係をしておりましたので、私も貿易関係というか商社マンというか、そっちの方に進むのかなと思っていたのですけれども、アメリカに行った時に、結構いろんな方に、月に1回ぐらいパーティがあったんですけれども、日本の文化について尋ねられるんですね。Tea ceremonyがどうのこうのとか、Flower arrangementがどうのこうのとか、ブラシで文字を書くそうだなとか・・書道のことですけどね。お能はどんなダンスなのかと言われても、I don’t knowですよね(笑)。非常に恥ずかしい思いをしまして、そんな思いから、時間がある時はもっと日本のことを勉強しなければ日本人として恥ずかしいなぁという気持ちがありました。

 そんな目に遭いまして、大学に入って時間が出来て、その頃からお茶をちょっと習ってみないかという話がありまして、そうだそうだ、高校の時にこんな恥ずかしい思いをしたのでお茶を習ってもいいかな、お茶はちょっと飲み方さえ習っておけば、格好良く女の子の隣でお茶が飲めれば・・というような(笑)、そういう気持ちでお茶を始めたのがきっかけなんですけれども。

 お茶を始めますと、茶碗にはいろいろ表情がございまして、天目形やらいろいろございまして、そこからやきものというものに非常に興味を持ち出しまして、この世界に入ってきたということですけれども。

 私の場合はどっちかというと、やきものから入ってきたというよりも、お茶から入ったような次第でございます。ですから、作り手というよりも、使い手から入った人間です。家がそういう家だったということは、ほとんど無かったんですけれども、なんとか粟田焼を復興させることが、私の一つの使命、なんといいますか、それをお茶の世界で復興させたいというのが私の夢であります。ま、だいたいこんな感じですけれども、宜しくお願いいたします。


  はい、ありがとうございました。それでは、最後になりましたが鈴木さん、お願いいたします。


鈴木   先程、谷先生から、老けているとご紹介がありました(笑)。日頃、苦労が多いものですから、どういう苦労かというのを(笑)、ちょっとお話したいと思います。

 私は岐阜県の多治見から今日、参りました。大学が京都でして、先程、谷先生からご紹介がありました父親もやきものをやっておりまして、父も茶碗なんか作ったりするんですけれども、そんな父親が大変厳しいものでしたから、絶対にやきものなどすることはない、むしろそこから逃げたい、と思っていたんですけれども。たまたま大学のゼミの先生が、非常にやきものの好きな先生で、「鈴木も出たらどうすんのや?」と聞かれて、「まだ決まってません」と言ったら、「京都にいいところがあるから」と、言われて行った所が京都の陶芸訓練所、私のこの履歴のところに書いてありますけれども、職業訓練校に行きまして、そこで安田君とは同期なんですけれども、そこで初めて土を触ってみて、やきものの楽しさを味わったというのか。こんなに楽しいことをやらない手はないなと思って、それ以降、地元に帰りまして、父親を手伝いながら、私は伝統工芸展を中心に発表しています。

 私は、「茶陶」というものには多分この中では一番遠いところにいる人間だと思うんです。と申しますのもお茶もまったく習ったこともございませんし、また茶碗でこそ最近少しやってみる気になりましたけども、「茶陶」といわれるようなものをほとんど発表しないんです。

 それはなぜかと言うと、私は作品一つ一つに、自分の力強さ、少しでも作品を見て元気を、「この作品から私は元気をもらったわ」なんて言っていただけたりするのがすごく嬉しくて、少しでも力強い作品を作ろうと思ってやってるんです。でも茶碗を作ろうとすると、そういう力強いものを作るにはまだまだちょっと力が足りないかなと思ったりして、作ってないんです。

 ですから、今日は「茶陶の昨日・今日・明日」ということで、私はどういう風にディスカッションに参加したらいいのかな?と多少不安もございますけれども、作り手の立場から思っていることを、少しでもお話できましたならと存じます。 (拍手)


  皆様のご協力によりまして、かなり順調に進みまして、早く経過といいますか、進行しております。しかし、後のディスカッションをたっぷりしようということで、取りあえずここで休憩を取らせていただきたいと思います。

 その際、皆さんのお手元にある今日の資料の中に、こういった質問表というのが入っております。もし今の私の報告、あるいは皆さんのいろいろのご発言のことに関して、何か質問がございましたら、簡単で結構ですからここに書いて、受付の方へお渡し下さい。今まで出なかった話でも構いません。それはそれでいつかご紹介するよう、時間の中でご紹介するように致しますので、そういった質問があるほうがパネラーの皆さんも話しやすいと思いますので、どしどし質問を出していただければと思います。それではしばらく休憩ということにいたします。 (拍手)


―――――――――――――――― 休憩 ―――――――――――――――――――
つづき

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